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見聞録(その他いろいろ)

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第1回クラスター爆弾禁止条約締約国会議に参加して

2010年11月6日〜9日

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上)JCBLメンバー+アフガンキャンペーン  
中)受付の若者達      
下)会議初日の会場にて

第一回クラスター爆弾禁止条約締約国会議参加の記録

2010年11月6日(土)

 午前7時30分、妻の「気を付けて」の声に見送られて家を出る。コンピューターまで詰め込んだナップザックがずしりと重い。
 出発2時間前の午前9時にタイ航空のデスクにEチケットを出す。思えば搭乗手続きも変わったものだ。最初は大丈夫かなと心配だったけれど、今は快適さを感じている。
いつも通り、アイルシート(通路側シート)を選択した。トイレが近いからだ。歳は取りたくないものだ。と思いながらもVISAのラウンジで生ビールを飲む。うまい!
 時間に余裕をもってゲートに向かったつもりだったが、もう大半の乗客は搭乗済みであった。季節のせいか、乗客は少なかった。席についてクラスター爆弾締約国会議の資料を読み始めた。全体の流れは理解できたが分科会の内容はいまいち、はっきりしない。

 タイの空港は相変わらずの活気を見せていた。それにしても乗継の5時間待ちは長い。資料の類を読み返すが時間を持て余すことこの上ない。
 しばらくすると、北川JCBL代表がベルコンで移動していく姿が窓越しに見え、10分ほどで待合ラウンジに姿を現した。二人の女性も一緒だ。対人地雷問題支援者の目黒さんと松浦さんを紹介された。バレエの発表会の収益を毎年寄付してくれている支援者だとのこと。お二人から
名が「けいこ」だと聞かされ思わず笑みを浮かべてしまった。愛妻も恵子だからである。
 北川さんから今回の会議で承認される予定の行動計画の手直しについて問題点を説明していただいた。大国の思惑が微妙に会議に投影されているようだ。
それにしてもクラスター爆弾条約にあのカナダが参加していないとは驚きだ。アメリカの意向を慮ってのことらしいが、政治の世界は複雑だ

 ラオスへのフライトは約1時間だった。隣に座ったフランス人夫婦は観光の下調べに余念がなかった。機内食にツナサラダが出たのには少しびっくりした。
 ラオス空港はやや蒸し暑かった。日本人は2週間以内の滞在ならば、2007年からビザ不要となっているため、すんなりと入国審査が終わった。しかし、北川さんたち3人がなかなか出てこない。後でわかったのだが、CMCの補助員に助けられてかえって遅くなったとのこと。でも、そんなことはよくあること。気にしないことだ。ホテルの途中の道路がすばらしい舗装ぶりだ。市街に入ると一方通行がやけに多い。こんなことは東南アジアで初めてだ。社会主義国だからできる芸当なのだろうか。
 宿舎のカンピアナホテルに到着。内海さんと目加田さんがロビーで出迎えてくれた。早速翌日の予定を少し話しつつチェックインを終えた。部屋は36ドルにしては、やや期待外れだったが、不足があるわけではない。あえて言うなら、バスタブがないこと位か。


11月7日(日)

 良い目覚めだ。朝食のためにレストランに行く。すでに、目加田さんはじめ、3人が席についている。雰囲気はお呼びでない、という感じで、別の席に座る。
 たまたま隣に片足のない黒人が座った。挨拶すると、ルワンダから来たという。暗い表情の男だ。障害者団体の要人のようだ。型どおりのあいさつのあと、向こうから障害者の団体の名前をあげ、知っているかと問われたが知らないので、「知らない」、と答えると気まずい沈黙となった。もう二言三言話したが、うまく聴き取れない。

 食事は3種類から選ぶ方式で、私はお粥を選んだが、まあまあで量も申し分ない。フルーツのデザートもついて悪くない。

 食事の後で、内海さんから状況報告受ける。フィールドトリップは定員75名のため、総勢500名を超える参加者の中では選ばれることは極めて難しいという。まあ、そんなこともあるだろうと出発前から考えていたので、ショックでもない。

 そのまま、隣室にある無料のPCに向かう。機種は古く、通信スピードも遅いが、無料なのが良い。午前中ずっとeメールチェックでPCと格闘していた。
 昼になって、食事のために外出した。どこに行くにしても30分も歩けば到着すると聞いていたが、方向もわからず、スーパーマーケットでワインを買って早々に引きあげた。レストランも探してみたが、肉料理が多く結局ホテルの前にある「ラオ・キッチン」という店にはいいた。白い壁でおしゃれな感じだ。料金は少し高めだったが味は良かった。焼き魚に竹串がさしてあるのが印象的だった。女主人とおしゃべりをした。2か月前にオープンしたばかりで、妹の夫がシェフだという。ビジネスカードをもらってホテルに帰った。

 昼過ぎに目黒さん、松浦さんとドンチャンホテルに参加登録をしに行こうと約束していたが、時間が決めてなかったため、会えず、ひとりでドンチャンホテルに向かった。暇そうにしているCMCのスタッフに車で送ってもらえた。
 ドンチャンホテルは町から離れたところにぽつんと建っている感じで、豪華そうなホテルだった。ホテル前の道路に、軍隊が出て警備しているのが、今回の会議の重要性がうかがえた。
 ホテル入口で持ちもの検査とⅩ線検査があったのには驚かされた。二階が登録場所だった。名簿確認、配布物一式を受取り、最後に写真を撮って終了だった。その間約15分だった。偶然目加田さん、内海さんと会って、一緒に帰ろうということになった。シャトル・バスを待っている間に、ティモールからきたキャンぺイナーとよもやま話をした。非常にフレンドリーで「ありがとう」と日本語も入れてティモールの地雷事情を話してくれたが、地雷もクラスター爆弾もない平和な国とのこと。
 内海さんが各国の地雷関連の要人に紹介してくれた。「支援者です」と紹介されて複雑だった。「同士です」と紹介されれば、どれほどうれしかったことか。

 カンピアナホテルに戻り、ホテルに戻ると目黒さんと松浦さんに会った。町をぶらついていたという。スーパーマーケットのようなところでお土産も買ったという。さすがにそつがない。当然、登録はまだしていない。ロビーに行くと北川さんに会う。北川さんの昔の教え子の息子さんがレストランをやっているのでそこに行こうということになった。

 バイクタクシーに7人も乗り込んで、レストランに向かう。しかし、いくら行ってもつかない。運転手が携帯で連絡を取ってやっと到着するが、遠い。やっと着いたレストランは広大な敷地に点々と小屋が建っている感じだ。なぜか、ほとんど客がいない。オーナーのトトさんが笑顔で迎えてくれる。彼はフランスで育ったため、英語よりフランス語が流暢だ。もちろんラオ語も話す。彼の話に聞き入りながら、食事が進んだ。料理は大きな魚をはじめとした肉のあまり出ないもので、私にはとてもありがたかったが、他のメンバーはどうだったのだろうか。おしゃべりと料理を楽しみ、帰りはトトがホテルまで送ってくれ、とても楽しい時間だった。

 ホテルに帰り、北川さんと部屋でいっぱいやろうということになって私の部屋でシャルドネ片手に宴会が始まった。北川さんの昔話を聞く。世界中行ったことがない国がないほどだ。特に1960年代にアフリカ諸国を訪れていたことには心底びっくりした。1ドル360円の時代に流暢なフランス語を操り、アフリカ諸国で電話線を敷設する仕事に携わった若き電電公社のエリートの姿が見えるようだった。
11時ころお開きになった。シャワーを浴びるのも億劫になり、そのまま眠りに落ちた。


11月8日(月)

 今日は目加田さんと北川代表は北部のクラスター爆弾除去現場のフィールドトリップだ。CMCの主要メンバーもほとんどそちらに出かけているとメンバー表が物語っている。朝食後近隣を散策した。帰ってくると、目黒さんと松浦さんに会う。ドンチャンホテルに登録に行くという。私も同行することにした。内海さんとカークが加わり総勢5人でバイクタクシーを雇い、ホテルに向かった。

 ドンチャンホテルでは、プレイベントの分科会が開かれていた。わたしは障害者部会に参加した。カンボジアから参加していた、トゥン・チャンナレットとソン・コサルにも挨拶を交わした。コサルとは初めて会ったが、柴田知佐さんの出演したTVで顔を覚えていたので、旧知のようであった。

 分科会だが、各国からの地雷やクラスター爆弾の被害者に交じって交流し、意見を言い合うのは言葉の壁がなくても容易なことではない。障害者の視点からの発言をずっと聞いていると自分の意識が彼らと必ずしも一致していないと感じられ、やや違和感さえ覚えていた。クラスター爆弾条約見直しの文章と原文との比較をするという作業では勝手がわからず、一言も発言できなかった。

 ひとつ印象的だったのは、各国のキャンぺイナーが現況報告をする場面でオーストラリア人の車イスの女性がバスケットボール競技をやっているとエネルギッシュなオーストラリア英語で発表した時だった。会場の誰もが彼女のエネルギーに圧倒されていた。

 会場で、内海さんに紹介された、ラオスの義肢装具センター所長の案内で同センターを訪れた。非常に近代的な建物で、規模も大きく、日本政府の援助でできたことを示す表示もあった。内部を案内してもらい、土産物のTシャツも買って帰ろうとしたときに、日本人の義肢装具師と出会った。名古屋出身だという彼は、現地の人と結婚しているとのこと。内海さんに目加田さんから電話があり、急ぎカンピアホテル近くの市ホールに行くことになった。内海さんは慣れた様子でバイクタクシーの運ちゃんと交渉している。運転手は英語を話せなくても聞き取ることはできるようだ。二人で7ドルで話がついた。

 走るように去る内海さんを見送り、ホテルに戻ると目黒さんと松浦さんに会った。町をぶらついていたという。スーパーマーケットのようなところでお土産も買ったという。さすがにそつがない。当然、登録はまだしていない。夕食に行こうということでホテル近くのレストランに入った。3人別々のものを頼んで分け合おうと二人に言われ、私は魚の炒め物のようなものを頼んだ。もちろん飲み物はビールだ。ラオス料理はタイ料理ほどすっぱくなく、日本人好みだと思う。野菜の炒め物もすこぶるおいしかった。会計は3人で10ドル少々だから安い。その後、お開きに近い市ホールに行く。どうやら誰でも参加可能なパーティーだったようだ。残念。ホテルに帰ってシャワーを浴びて疲れのせいかそのまま眠りに落ちた。


11月9日(火)

 今日は朝から第一回クラスター爆弾禁止条約締約国会議の開催セレモニーだ。私がラオスを去る日でもある。
 朝食のときに、ヨシュア(ラオスの対人地雷禁止活動の長いアメリカ人)と一緒になる。やはり、アメリカ人のカークが一緒だ。カークは英語の教師として日本で生計を立てている。若そうに見えたが40歳だという。好男子だ。朗らかで典型的なアメリカ人だ。ヨシュアはカークの対極にあるパーソナリティーでやや陰気で笑わない。しかし、カークいわく。ヨシュアは「知の巨人」だ。確かにカークのかなり込み入った質問にも淀みなく答えていく。やや皮肉な言い回しが多く、私には理解が及ばないこともある。大半は忘れたが、ひとつだけ覚えていることがある。
 1997年の対人地雷禁止条約成立の際には、インターネットが非常に大きな役割を果たした。しかし、最近では、政府(アメリカを指していると思われる)がインターネットを使ってNGOの活動家を脅しているというのだ。インターネットは諸刃の剣ということだ。具体的な例については何も言わなかったが、相当厳しい状況(個人に対しての脅し)があるようだ。

 話を途中で切りあげて、市ホールに向かう。副総理と各国大使が集まって盛大なオープニングセレモニーが催されるのだ。数十人が踊りで迎えるところに黒塗りの高級車でVIPが次々と到着する。私も初めは北川代表と歩いていたが、途中ではぐれてしまった。やむなく会場係に案内されて席に着く。どうも、外交官の席に案内されてしまったようだ。とやかく言ってもしょうがないので、じっと座っていた。ほどなく副総理が到着し、全員起立して迎える。後は長い長いセレモニー。歌あり、劇あり、スピーチありで2時間ほどが過ぎる。
 やっと終わったと思って外に出ると、今度はドンチャン・ホテル行きのバスが待っている。待つこと20分、やっとバスが動き出す。道路は交通規制で車一台もいない。約10分でドンチャン・ホテルに到着した。

 ホテル別館が会議場だ。国際会議のために、作られたと一目でわかる。通訳ブースが列をなしている。おそらく500名ほどの参加者がいただろう。
 たまたま北川代表、カーク、目黒さん、松浦さんたちと合流できた。しかし、会議は各国の基調演説が延々と続く単調なもので、辟易してしまう。近くにいた、朝日新聞記者とJMAS(日本地雷除去機構)のメンバーと名刺交換を済ませ、会場を出た。外には各国のNGOが資料を用意してブースを開いていた。そこでできるだけの資料を鞄に詰め込んだ。カバンがはちきれそうで、ずしりと重い。

 今日は午後7時には空港に向かわなければならないので、早めにホテルにもどることにした。目黒さん、松浦さんとともに途中まで徒歩で行き、街中でバイクタクシーを拾った。
ホテルに着いて時間があったので、午後7時集合という約束で自由行動となった。私は、一人町を歩き、一軒のレストランにたどりついた。日本語の宣伝文が貼ってあったので、店に入った。

 60代後半と思われる男性が一人いて「いらっしゃい」と声をかけてきた。料理を注文して、世間話を始めた。彼は元商社マンで、主に香港、タイ、ラオスで長く働いた後、こちらの女性と結婚し、退職後に店を始めたという。彼に言わせるとこちらの社会主義はいい加減なものだそうで、拝金主義がまかり通っていると辛辣だ。

 食事を済ませ、6時40分ころにホテルに戻ったが、CMCの運転手が近寄ってきて、他の人は先に出発したという。どうも空港の手続きが予想以上に時間がかかるため、出発を早めたようだ。荷物を預けた北川代表の部屋に目黒さんのメモがあった。几帳面だ。私も荷物をまとめ、早速タクシーに乗った。
 空港に着くと、カーク、目黒さん、松浦さんがすまなそうに手を振った。目加田さんが早めに空港に行ったほうが良いと進言したとのこと。別に気にもならない。
 タイで3人と別れ、翌朝名古屋に降り立ち、職場に直行した。いつもながら、余裕のない旅の幕切れだが、現役の身では致し方ない。

 今回のクラスター爆弾禁止条約締約国会議出席は、私にとって初の国際会議だった。いろいろな意味で収穫があった。今後はできるだけ、多くの機会に国際会議に出席していきたい。

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博地雷パビリオンのゲスト達

 2005年7月

 2005年7月1日から31日までの万博「地球市民村」に10日間ほどボランティアとして参加しました。その中で私が出会った各国からのゲストの会場スピーチを要約で紹介します。その前に今回のJCBLの出展コンセプトを紹介しますと、「地雷廃絶に立ち上がった市民運動のサクセス・ストーリー」という事です。これは、対人地雷禁止条約が市民(NGO)が作り、各国政府に参加を呼び掛け、成果をあげた画期的な出来事だったからです。ただ、アメリカ、ロシア、中国、インドなど41ヶ国が未参加のためこれらの国々に具体的に参加を呼び掛ける事が必要で「ちょうちょキャンペーン」が計画・実施されました。

トゥン・チャナレット 「カンボジア」

 カンボジアでは今なお新たに地雷の被害に遭う人々がいる。地雷はなくさなければならないし、そのように努力もされている。各国の援助も続いている。しかし、「地雷」が人々の心の中にあることを忘れてはならない。「心の地雷」=人を妬み、憎み、虐げる心を変えねば地雷のない本当の平和はやってこない。皆さんは幸い地雷の被害とは無関係な平和な国に住んでいる。皆さんのほんの少しの支援が多くの地雷被害者を救う事を忘れないでほしい。オタワ条約に全ての国が参加するよう働きかけて欲しい。

シスター デニーズ・コグラン 「カンボジア」

 カンボジアでは日々地雷による悲劇が起こっています。例えば、森に薪を取りに言った父子4人が地雷の餌食になってしまうというような事も起こります。はじめにお父さんが地雷を踏み、その姿を見た子供達が傷を洗うための水を求めて歩き回り、結局全員が地雷を踏み、命をなくすというような事です。
 私達は地雷の被害者に多くの支援活動を行って来ていますし、今後も続けて行きます。同時にちょうちょキャンペーンのような運動で、まだオタワ条約に参加していない国々に積極的に参加を呼び掛けていくことも大切なことです。皆さんのご協力をお願いいたします。

プルナ・ショバ・チトラカール 「ネパール」

 ネパールは北を中国、南をインドに挟まれた美しい国です。エベレストを始めとするヒマラヤの霊峰に囲まれた平和な国と思われていますが、王様の政府、民主主義勢力、マオイストと呼ばれる反政府勢力の間で紛争が起きています。その紛争の中で地雷が使われているのです。ネパールでは地雷は国境線ではなく、地方の道路に埋設されています。白昼堂々と小学校から生徒がマオイストにより連れ去られ、少年兵にされています。銃の扱いから爆弾、地雷の作り方まで教えるのです。ネパールで小学校1年から5年までの生徒達に地雷を作ってはいけないと教育せざるを得ないのはそういう社会背景があるのです。JCBLが提供してくれた資金援助で完成した地雷回避教育のマンガ本を持参しました。バケツ、水差し、糸玉、花ビンに仕掛けた地雷があるので注意というところがありますが、これも同じ理由です。
 私は、政府軍、反政府軍の双方のトップに面会をして地雷使用の中止を呼びかけ、彼等の中止の約束を得ていますが、両者がその約束を守っていません。
 ちょうちょキャンペーンのような運動は是非必要なものです。皆さんの協力をお願いします。私は社会における女性の平等な権利と機会均等を求めるWODES(女性開発協会)の会長もしています。女性福祉協会の創設者でもあり、広い分野でネパールの女性のための活動しています。

趙  載  国  「韓国」

 韓国には毎年のごとく地雷事故があって多くの一般市民が被害に遭われています。と言いますと日本の皆さんは、首をかしげながら真剣に聞いてくださいました。「みんなでなくそう対人地雷館」において万博に来られた人々に韓国の地雷状況を報告させて頂き、隣国に住む地雷被害者たちのことに関心を寄せることになり、本当に嬉しいです。
 韓国には約50年前の朝鮮戦争のとき、米軍によって非武装地帯(DMZ)辺りに約100万個の地雷が埋設されており、その後も南北の緊張が高まる度地雷を埋設してきました。1988年のソウルオリンピックの前にも北から武装ゲリラが浸透してきて妨害すると言いながらソウル市をはじめ全国36ヶ所の対空砲基地に対人地雷を埋設したのです。韓国で使われている地雷は70%がアメリカのM14というプラスチィク製であるが、これは金属が殆どはいていないために探知ができません。(注 韓国の地雷探知機の性能の問題もあるため)またこれは非常に軽くて洪水や大雨のとき、川に流されて村の田んぼまで入ってくるのです。
 それ故、民間人の地雷被害者たちは家の近い川沿いや後ろの小山で釣りや山菜取りをしているうちに地雷を踏み、死亡したり大怪我したりするのです。つい最近でも5月19日、道端で3人が地雷事故に遭い、一人は死亡、残り二人は重傷でした。また7月7日には40代のお母さんが山菜を取っているうちに地雷を踏み、右足を切断し、今も入院しているのです。今回、会場に来て地雷禁止のアピールをしてくれている金君も中学校の3年のとき、お母さんと一緒に家の近くにある湖の辺りで枯れ木を取っているうちに滑って地雷に触り、両手の指をすべて失い、左目を失明してしまいました。
 長い軍事政権のしこりがまだ残っている韓国の政府は、イラクやアフカニスタンなどの地雷除去などのために700万ドルという多大な資金を提供しながら、自国の地雷被害者には目を閉ざし、一切支援をしていません。地雷被害者は国民健康保険さえ使えないのにです。日本の皆さんにこの韓国の地雷被害の実態を知って頂き、同時に世界中に伝えて欲しいのです。きっと皆さんのお話が世界の隅々にまで届き、韓国の地雷被害者の心を癒し、悪魔の兵器地雷が無くなることになるでしょう。
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「エコストック2003」への参加

 2003年5月24日  庄内川河川敷


 今年の「エコストック」への参加はぎりぎりまで迷ってついに決断したものだった。決断のきっかけは「エコストック」役員である竹内正美さんのお誘い電話だった。「大学生が地雷問題の展示をやりたがっています。」という言葉に魅せられて、会見の上O.K.を出したが、前日の準備が大変だった。地雷模型、金属探知器、JCBLパンフ、参考書籍、ビデオ、テレビ、ビデオデッキを積み終えたのは午前3時を過ぎた頃だった。ビデオの選定にずいぶんと手間取ったのが遅くなった原因だった。

 2003年5月24日当日、昨年と開催場所が変更になった会場に9時頃到着し、竹内さんの指示でブースを確保し展示の準備をした。お手伝いをいただいたのが、名古屋芸術大学のTさんだった。地雷問題に詳しいという訳でもなかったが、私の説明をすぐ理解し、訪れる「お客さん?」に丁寧に応対していたのに感心した。

 今回の目玉はビデオだったが、強い日差しと、周りの「騒音?」であまり観客の関心を引く事が出来なかったようだ。一番人気を集めたと思われるのが地雷探知体験だ。五円玉を地中に埋め、金属探知器で探してもらったが、機械の珍しさと高性能な事が驚きを誘ったようだ。地雷探知作業の困難さ(低木や雑草をわな線に気をつけながら刈る作業が必要な事、小さな鉄くずにも反応するためその都度慎重に探り棒で地雷かどうかを確認する事、高温多湿の劣悪な環境で体力を消耗する事、約二千個の地雷除去に対して一人の犠牲者が出る点等々)を説明しながら操作を教えたが、みんな真剣に耳を傾けてくれた。
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「JCBL語り部ボランティア養成講座」を参観して

2003年2月15日 午前10時〜午後8時 日本赤十字社

 この初めての企画を一日だけとは言え、参観出来たことは非常に有意義であった。
 まず、この有料の二日制講座に全国から種々の背景を持った21名の参加者があった事がすばらしいと思った。
 清水俊弘さんの講義「対人地雷の問題と現状」は、それ自体が地雷問題講演のすばらしい典型であり、随所で押さえどころを確認をしながらの説明は、実際に各国の現場を経験してきた者特有の言葉の重さを感じさせた。実際、レジュメをそのまま講演会の原稿にしても良いと思われた。私が印象的だったのは、「なぜ地雷問題に興味を持ち、廃絶キャンペーンに参加したかをはっきり聴衆に説明する事が大切」という一節だった。と言うのも私自身が自問を繰り返して来たからである。また、地雷問題を「現在の問題として訴える」という点も大変大切なことだと再認識した。

 目加田説子さんの「対人地雷問題の解決プロセス」は地雷問題に関係する条約の条文を丁寧に読み、解説していただいた。条約についての基本的な知識を得る格好の機会であった。こうした内容をダイレクトに講演で語る必要はあまり無いのかも知れないが、原典を読んでいるか、いないかが聴衆には敏感に感じ取れるものである。原典にあたる作業が出来たことは幸せであった。

 下井信浩さんの「対人地雷除去について」は地雷除去の技術を具体的な事例を随所に入れながらの解説で、最先端の地雷除去技術を平易に解説するものであった。ただ、我々が講演をする場合にどこまで深く話をするかについては慎重さが必要であろう。実際の地雷除去現場も知らず、テクノロジーの基本的原理を知らないまま迂闊に話をすると、本筋から離れるばかりでなく、質問に立ち往生してしまう危険性もあるように思えた。

 夕食後に北川康弘JCBL会長と野村修身さんによって催された、「地雷問題を知るために」という、インターネット検索のための講義は、参加者それぞれの活動の中で培った独自の検索方法も紹介され、有意義であった。しかし、実際のところ例えばICBLのホームページを開けてからどうやってお目当ての事項を探し出すかという点が問題になるのだが、この点はむしろ英語力の問題に関わってくるため、余り突っ込んだ議論に発展しなかったのが残念だった。

 1日目を終えたところで帰宅せねばならず、残念ながら2日目は参観出来なかった。しかし、お送りいただいたレジュメに目を通すと1日目同様、中身の濃い内容で網羅されていた。再度になるが、このように充実した講座がJCBLによって開催された事に賞賛を送りたい。
 後日談になるが、関西または中部でも「語り部講座」をやろうという話が出て、現在調整中である。決定次第公開する予定でいる。
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-日本の保有地雷廃棄完了記念シンポジウム-
「地雷ゼロをめざして」に参加して

2003年2月14日 午後6時〜7時30分 日本赤十字社

 2003年2月8日の日本に於ける対人地雷廃棄完了を受けての報告会であった。当日の様子もビデオで流され雰囲気を市民に知らせる良い機会であったと思う。しかし、ここでも外国人参加者(記者も)はほとんどなく、諸外国、特にアジア諸国へのアピールという点で物足りなさを感じた。当然の事ながら出席者の外務省や防衛庁の担当者は事の重要性と内外への周知と、オタワ条約遵守についてのリーダーシップの大切さを認識している様であったので余計に残念な気がした。

 一つ注目されたのが、防衛庁による対人地雷問題への取り組みだったが、1)対人地雷廃棄、2)対人地雷全面禁止条約未加盟国に対する加盟の働きかけ、3)地雷探知・除去技術の開発支援、4)国際協力の内容が今ひとつ鮮明でなく、具体的な成果を上げるべく本気で取り組んでいるのか疑問が残る答弁であった。NGO、政府、企業が手を組めば、お金だけでない前向きで継続的かつ質の高い援助が実現出来るのに、と思った参加者は私だけではないだろう。
 代替兵器について参加者から、その困難性が指摘されていた。曰く、遠隔操作での爆破と言っても暗闇の中でどうやって敵と味方の区別をするのか。まさに当を得た質問だとは思ったが、私は代替兵器にも反対する立場なので、今後議論が隘路に迷い込まない事を願いたい。
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対人地雷廃棄完了セレモニーに参加して

2003年2月8日 午後2時〜3時  航空自衛隊饗庭野分屯基地

 2003年2月8日は日本にとって非常に意義のある日だったはずである。日本が約100万個保有していた対人地雷を、訓練用の約1万5千個を除き、安全かつ完璧に廃棄したのだから。

 しかし、式典は極めて形式的に執り行われ、外国メディアの姿は皆無であった。総理が出席するからだろうが、警戒は厳重を極め参加者の行動は逐一統制されたものだった。そこには地雷廃絶に向けて内外に情報発信するという発想が全く無かった。国会議員がかなりの数参加しているのに、いったい何を考えているのだろうというのが私の第一印象であった。ただし、後日のデイリーヨミウリやジャパンタイムズの記事が日本語の新聞各紙より、ずっと詳細にこの問題を報じていたのが救いだった。(ニュースのページを参照されたい)

 技術的な面で評価出来るのは、北海道日本油脂株式会社美唄工場での水中爆破処理の様子がカメラを通して明らかになった事である。見たところこの技術は非常に大がかりな設備を要せず、比較的容易かつ安価に技術移転が出来るように思えた。技術的な問題で地雷廃棄が進んでいない国々(オタワ条約への加盟に関わらず)に積極的に売り込んではどうだろうか。

 小泉首相の演説の中で、「日本は本日、対人地雷の完全廃棄を完了しました。」と言っているのだが、これは訓練用地雷(2002年12月現在で既使用済みを除き、9,613個)を残していることを故意に無視または隠蔽している様な印象を受けた。物事には正確性を期さなければならない時があり、まさにこの時もそういう場合だったと思う。
もう一つ大切なことは、小泉総理が今後の地雷被災国に対する援助の具体像を示さなかった点である。確かに赤字財政の中でODAも削減しており、安易な約束は出来ないかも知れないが、地雷問題は長期的な援助をしてはじめて成果が期待できるものであり、その点を踏まえた国際的公約をしてもらいたいものである。

 子供サミットは一日のみ参加した印象だが、子供たちの活動発表が画一的で「模範解答」の丸写しの印象を受けた。もちろん先生方の指導によって無難なものに書き上げられていたとは推測できるが、いわゆる個性が感じられなかったのは残念だった。 
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「エコストック2002」への参加
2002年6月1日〜2日と庄内緑地公園

 2002年6月1日〜2日と庄内緑地公園で第一回エコストック・フェスティバルが開催され、中部地雷問題支援ネットワークもブースを出して環境問題としての地雷問題を訴えた。実のところ、私はこのエコストックがどういう経緯で催されるようになったのか詳細を知らない。参加している団体の面々から、環境問題に関する集まりから発足したのであろう事は察しがついたが、深く説明を求める事はしなかった。

 中部地雷問題支援ネットワークのブースでは、JCBLのパネル展示、JCBLのパンフ配布、「Goal for All」のキャンペーンハガキの配布、地雷問題書籍の閲覧、地雷問題に関する質問に対する回答をした。それに加え、地雷原歩行体験コーナーと地雷探知コーナーを設け野外の特性を生かした催しでの参加とした。6月1日の土曜日はブースとコーナーの設置に手間取り(ブースの骨組みはプロの職人さんにお願いした)、活動開始が午後1時頃になってしまった。5月29日のチャンナレットさんの講演会で来場を呼びかけておいたにも関わらず遅くなってしまい焦ってしまった。

 さて、お客さんの入りだが、パラパラといったところで、既に地雷の問題に関心を持っている人が多かった。中には小牧から来たという中学生三人組は私の説明を一生懸命ノートに記録していた。学校の課題学習の一環なのかも知れない。地雷原体験コーナーにチャレンジする人は意外に少ない。もっと大きな看板とか旗竿が必要だったかも知れない。野外でたくさんのブースの一つとなると「いかに目立つか」が人集めの重要な要素になるようだ。余り野外で活動しないものだからこういう基本的なノウハウの蓄積が無かった。次回には教訓を生かすことにする。看板、旗竿と言えば、「地雷問題コーナー」とか「地雷探知体験」などのものも用意が必要だろう。

 地雷原体験コーナーの話しに戻るが、その構造を説明すると、とてもシンプルなものだ。大型のビニールシートを幅1メートル、長さ5メートル位に折り畳んで地面に置き、そのシートの下に地雷の代わりになる「音の出るおもちゃ」(ビニール製のドラエモンのおもちゃで押すとキューと音を出すもの)を置いただけだ。リアルな爆発音を演出する事も出来るのだが、昨年中区栄の公園でやった体験コーナー(模擬地雷を使いかんしゃく玉で爆発音を出す)の教訓からなるべく簡便で周りを汚さず、後かたづけも楽で、何よりも体験者を余り怖がらせない様に工夫した次第だ。それでも、体験した一人の女性(三十歳代)は、恐怖で足がすくみ最初の一歩が踏み出せなかった。コーナーを作った私にしてみれば、意図した通りの効果(日常生活の水くみや薪拾い、牛の世話等につきまとう地雷の危険性と恐怖、それでも地雷原に足を踏み入れなければ今日の生活が出来ないという現実の板挟み)が得られたわけだが、彼女には少々気の毒な感じがした。一方、本当はもっとずっと緊張を強いられるはずの地雷探知体験が、地雷探知機(金属探知器)の珍しさもあってか勧めると年齢に関わらずほとんどの人が体験していった。無理も無いのだが本当の地雷の怖さなど知らないので、実に無造作に危険地帯に足を踏み入れるし、地雷探知機での探査もラフなものだ。「命が掛かった大変な作業なんですよ。」という私の言葉がどこまで理解されたか疑問であった。それでも、一円玉や小さな乾電池に反応して「ピー」という音を出す地雷探知機による作業がいかに根気と体力と集中力を要するかは多少伝わったと思う。お客様の数は、JCBLのパネルを見て(読んで)いくだけの人も加えると50名位であった。

 二日目も一日目と全く同様の内容でキャンペーンを実施したが、別のゾーンで同時に開催していたオユンナ、加藤登紀子、小室等のコンサートの影響もあってか、また、私の都合で12時30分頃からブースを出した影響か、お客さんの入りは一日目の半分という所だった。地雷原コーナーも小さな子どもの遊び場となってしまう事もあったがこれはやむを得ない。2時過ぎに妻が応援に駆けつけてくれた。店じまいの4時頃には柴田知佐さん(地雷漫画の作者で良く知られている中学生)とご両親が顔を出してくれて、おまけに撤収のお手伝いまでしてもらい恐縮した。柴田さんからは地雷問題に取り組む「仲間」として見ているというありがたい言葉を以前いただいており、事ある度に色々お世話になり感謝するばかりだ。感謝といえば、今回この「エコストック」の事をわざわざ電話で教えていただき、資料も送っていただいた、前田正美さん(スーパーピクシーズというグループのボーカリストでエコストックに参加)に改めて感謝の意を表したい。講演会とホームページ意外のキャンペーンの機会はなかなか少ないので来年もこの「エコストック」に是非参加したいと思っている。
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対人地雷公開廃棄式典に参加して

2000年1月17日 新旭町

 「地震は止められない。でも、地雷は無くすことができる。私たちの手で」
 2000年1月17日(本日)帰宅後、TVの阪神大震災のニュースと対人地雷爆破作業本格開始式典のニュースを続けて見た時、思わず頭に浮かんだ標語もどきです。
 JCBLの一員として本日対人地雷廃棄公開式典に参加し、見聞きしたこと、思ったことを以下に短くまとめてみます。 

 14:12分新旭町に到着した私たちを待っていたのは、物々しい自衛官の姿と5台の送迎バスでした。氏名のチェックを受けミニバスに乗ること15分、会場の自衛隊体育館に着いたと思ったらまた、氏名のチェック。とても、「公開」の雰囲気ではありません。市民がぶらりと立ち寄れるのが「公開」と思うのですが・・・。

 会場の中には参加者、報道関係者、自衛隊員、旭化成社員等約150名。小渕総理の挨拶から式は始まりました。四方八方に気配りの行き届いた原稿の棒読みが例によって行われ、これで終わりかと思われた時、突然総理が自分の言葉でしゃべり始めました。カンボジア訪問時にフンセン首相と共にアンコールワット遺跡周辺の地雷除去作業実施地域を視察した話、地雷被害者の施設を見舞った話、地雷廃絶に向けての日本のリーダーシップなど大変歯切れの良い話でした。対人地雷問題に対する大層な思い入れと自信を垣間見た感じでした。一方の瓦防衛庁長官の挨拶はまさに原稿の棒読みで小渕首相との「温度差」を露呈していたと思います。続いて防衛庁の対人地雷廃棄の取り組みがOHPを利用して説明されましたが、何とも官僚的かつ合理的説明で、情報提供におけるサービス精神の欠落が強く感じられました。旭化成のビデオを使った説明もひたすら優等生的説明で自社のアピールばかりという印象を受けました。ただ、どちらの説明にもおそらく本邦初の(ひょっとしたら世界初)の内容(地雷の形状、爆破作業の手順・方法等)が織り込まれていた点は透明性の観点から評価すべきだと思います。

 爆破処理の中継が伝えた映像は爆発の凄さを実感させるものでしたし、わずかに遅れて聞こえてきた低い生の爆発音がリアルでした。式典は呆気ないほどあっさり終了しました。

 式典が終了して待合室で待つこと30分程。小渕総理大臣及び瓦防衛庁長官がわれわれJCBLと会見する時間が来ました。小渕総理は北川代表の注文(地雷被害者支援に一層力を入れて欲しい、オタワ条約に署名もしていない大国(アメリカ、ロシア、中国等)への積極的な働きかけをして欲しい等々)を聞き入っていましたが、地雷除去支援と被害者支援の割合を50:50(現行80:20)にして欲しいという要望には地雷除去が優先という考えをかなりはっきり口にしました。一方ハンガリーが日本の対人地雷処理技術に関心を持ち、技術支援を希望していると紹介されると、前向きの対応を約束しました。どうも、「真空総理」というのは見せかけだけのようで、こと対人地雷廃棄問題についてはオタワ条約署名の経緯からしても明確なリーダーシップが取れるように思います。

 式典終了後、JCBLメンバーの多くは新旭町町長をお訪ねし、目加田説子氏の講演会に先立ちお礼を申し上げました。町長の気取らない態度と、世界的視野を持っての町政運営の考え方には大変共感を覚えました。17:35分開演の目加田氏の講演会は町職員の研修という名目で町長自らが企画したようでした。参加者には対人地雷の話を聞く事は初めてという方も多かったようですが、北川代表のJCBLの活動報告も含め大変真剣にお聞きいただいたと思います。ただ、対人地雷問題に具体的にどう取り組むかということには戸惑いがあるように感じました。講演会は最後に質疑を行い19:00頃終了しました。

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