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見聞録(旅行記)

 見聞録(旅行記)1 カンボジア(シェムリアプ)訪問記(その1)


 2001年2月8日〜2月12日の間、是非一度は訪ねたいとかねがね願っていたカンボジアを訪問する事が出来た。準備不足もあって地雷支援の関連施設や除去の現場を見ることはかなわなかったが、かつてのクメール・ルージュの本拠地で地雷問題と関わりを持ついろいろな出会いを経験する事ができた。以下にルポ風にまとめてみた。

 2000年12月末に予定していたシェムリアプ訪問が航空券がどうしても手に入らず、中止の憂き目にあっていた。今回も1月中旬に申し込んだのだが、キャンセル待ちということでほとんどあきらめていたところに1週間前になってOKの連絡が入った。気がかりはあったがままよと出発した。どうも、真冬の日本から熱帯の国へ行くパターンは苦手だ。こちらで着ていた衣類が邪魔になるし、体調も芳しくないことが多いからだ。

 日本からカンボジアへの直行便は無いので今回はバンコクからシェムリアプに入った。バンコク空港でトランジットの手続きを済ませ、シェムリアプ行きのバンコクエアウェイのプロペラ機へ向かうリムジンバスの中で見覚えのある顔に出会った。人道目的の地雷除去支援を考える会(JAHDS)の冨田洋氏だ。氏には1998年に実施した地雷講座の講師をお願いしたことがあった。その後全く連絡は取っていなかったが、氏の会社が独自のノウハウで開発した「マイン・アイ」の記事はしばしば新聞やインターネットのニュースで見ていた。早速ご挨拶すると氏も思い出してくれて最近の様子を伺うことが出来た。今回は、「マイン・アイ」で除去した地雷原の確認作業に来たとのこと。道路も無いようなところで、一行はヘリコプターで現場に入る予定との事だった。「マイン・アイ」の技術的な問題点はほぼ解消したとの事だったが詳細を伺う時間は無かった。ただ、「マイン・アイ」を現地で普及させるには経済的に問題があり、現在タイの合弁企業とタイアップして普及に努めているとのことであった。シェムリアプへの飛行機に乗り込むまでの短い時間のお話だったので断片的ではあったが、氏及び「マイン・アイ」の現状を伺う事が出来てありがたかった。

 カンボジアにはビザが必要なので到着したシェムリアプ空港でツーリストビザの申請(20米ドル)をした。この制度はアンコールワット遺跡を見物に集まる世界各国の観光客から外貨を得る目的と思える。しかし、この制度がアフリカ諸国からのエイズ感染者の入国を容易にし、カンボジアをアジア有数のエイズ被害国にしているという記事を見たことがあり複雑な思いであった。シェムリアプ空港は小さな空港で、荷物を受け取ったころにはあたりはすっかり闇に包まれていた。実は急いで日本を発ったこともあって宿が決まっていなかった。5ドルを払って乗り込んだ街へ向かうタクシーの運転手に観光ガイドブックで調べた「グリーンガーデンゲストハウスホテル」を告げた。運転手の英語はかなり流ちょうなもので、実戦で鍛えられた感じだった。彼曰く日本人観光客の数は最近かなり増えており日本語学習ブームと日本人観光客を見込んだ新しいホテルの建築ラッシュが起こっているとのことだった。「グリーンガーデンゲストハウスホテル」には17ドルの部屋が空いていたので迷わず宿泊を決めた。バスは無かったがシャワーとエアコン、TV、冷蔵庫がついていた。

 翌朝食事もとらず目的のクメール伝統織物研究所を探し始めた。英語の分かる宿のスタッフに尋ねたが要領を得ないためやむなく歩き出したという訳だ。トレン・サップ湖に近い方にあることは住所で分かっていたのでそちらの方に向かった。すぐにバイクタクシー(オートバイの荷台に人を乗せて運ぶ商売)の兄ちゃんが声をかけてきた。なんと日本語だ。しかし、どこへいくかがはっきり自分でも分からない上に料金の相場が分からないため無視を決め込んだ。道路は交通量からメイン道路と思われたが舗装はされておらず、赤い火山灰のような土埃に靴はすぐに真っ白になってしまい、もし雨期ならとても歩けない。道沿いには屋台や、インターネットの看板をあげた店、商店、ガソリンスタンド、ホテル、銀行などが並ぶが二階建て以上の家屋は見あたらない。途中にあった外国語学校で研究所の場所を尋ねるも英語が通じない。20分ほど歩いてもう引き返そうかと思い始めたとき突然、クメール伝統織物研究所の看板が目に入った。門をくぐり敷地に入ると年輩の男性が何か話しかけてきたが、クメール語らしく全く分からない。機織り機が数台目に入り見て回った。手作りの様で、木の台に鉛筆の線が残っていた。高床式の住居の一階が作業場になっているようだ。二階にあがり森本さんの名を呼んだが出てきたのは若い現地の女性でやはりクメール語のため話が分からないが、どうやら森本氏は不在の様だ。少し待てと言う感じなので待っていると今度は日本人と一目で分かる若い女性が出てきた。高市さんという方で半年前から研究所で働いているという。
 彼女によると森本さんは「情熱大陸」という某TV局の番組収録のアレンジャーとしてここ数日間各地を廻っており、今朝は打ち合わせをかねてロケ隊の泊まっているホテルで朝食を取っているとのこと。連絡をつけて貰い電話で突然の訪問を告げると、一瞬の間の後、研究所で待って欲しいとのこと。少しの間抜け出して会いに来てくれると言うのだ。恐縮しながらもお言葉に甘える事にした。作業場で見学して時間をつぶしていると糸を紡ぐ仕事をしていた一人がお椀に麺と刻んだキャベツ?を入れて差し出してくれた。朝食抜きが顔に出ていたのだろうか。生ものに注意という警句が頭をよぎったがせっかくの好意を無にする気になれずいただいた。そうめんに似た感じでつゆの味もくせの無いものでおいしかった。思わず親指を立てて微笑むと彼女も微笑み返してきて意志は通じた様だ。そこへ森本さんが例の笑顔で帰ってきた。さっそく二階に上がり最近の様子などを伺った。

 クメール伝統織物研究所の運営は軌道に乗っており、機織りの仕事をする人も30人ほどになり、製品の質も向上しているとのこと。販路については相変わらず森本さんが「担ぎ屋」をして日本各地で売りさばくのがメインだそうだ。中間マージンを省略し大量生産による質の低下を防ぎたいのだという。そんな訳で、今回の様なアルバイトは臨時収入を得るために是非必要なことで結構力を入れているという。進行中の「情熱大陸」の仕事も一週間ほどスタッフの全行程につきあい、全ての手配をし、地雷原やクメール・ルージュの虐殺の記念館、道路もない僻地の村を訪ねたりでハードな内容だそうだ。メインゲストは作家の船戸与一氏で放映は3月4日とのこと。話が一段落したところで奥の自室から書類を出してきて見せてくれた「シェムリアプ 鎮守の森計画」と題した事業計画書だった。伝統的な赤色染料の素材であるラック介殻虫の巣を再現するためにその生息環境を保持する森を造り、あわせて天然染料素材となる樹木や果実の栽培も平行して行う。さらに、森に隣接した地域に綿畑や養蚕、そして織りや染めを中心に伝統の竹細工や木工、焼き物など、村に伝わってきたカンボジアの伝統工芸を再現する小さな村を併設するというものだ。2001年からの5年計画で30万US$の見積もりとのこと。既に候補地は見つかっていると言うが資金の目途は立っていない。しかし、森本さんはあまり資金集めを深刻に感じていないようだ。自分でお金を貯めてでもやるつもりでおり、日本政府のODA等のひも付きの資金は入れたくないとのこと。再度撮影スタッフの元へ帰らなければならない時間になり、出かける直前にア・キラの話しになった。彼は昨年暮れに一時武器の不法所持(武器とは地雷の事)で警察に捕まったが、すぐに釈放されたとのこと。そればかりか直後に結婚したという。そして、その披露パーティーが今日あるので参加してみませんかとあっさり言われてしまった。実は森本さんは私がアキ・ラの披露パーティーのことを知ってシェムリアプに来たと思っていたという。それは全くの誤解だったが「私のような部外者が参加しても良いのですか。」と訪ねると森本の友人だと言えば歓迎されるだろうとのこと。それではめったにない機会なので参加することにしますと答えると、高市さんと一緒にいったら良いと言い置き出かけていった。

 モーターバイクで1000バーツ(30円)、約5分の距離のレストランに到着すると誰もいない。30分位間前なら誰かいてもおかしくないのだが、こちらでは時間は余り厳格ではないらしい。少し待つとレストラン関係者数人がまず現れた。皆リラックスしていて披露宴の前とも思えない。そこへ日本人の一行が到着。シェムリアプ唯一の日本料理店「サンクチュアリ」の料理長小田さん、元青年海外協力隊の山梨さん、JDA(Japan Demine Action) の中村さん、ツアー会社勤務の仲本さんご夫婦等多士済々。皆で雑談していると車でアキ・ラ夫妻の到着。二十歳前という奥様は典型的な美人。初対面のアキ・ラに挨拶し、心付けを渡し会場に入った。丸テーブルには、招待客が結構派手な衣装で席に着き、めいめい勝手に飲食を始めたのには驚かされた。スピーチも無ければ、新郎新婦の挨拶もない日本人には考えられないような披露宴だ。料理と飲み物の量には少々辟易したが、大いに盛り上がった一時だった。途中ビデオ撮影隊が各テーブルを廻って収録していた。終わりも何の挨拶も無く突然皆がばたばたと帰り始めた。出口では夫婦が御礼を言って我々を送り出してくれた。少々飲み過ぎた感じでホテルに戻り昼寝をしたところ、起きたら夕方になっていた。午後6時頃街に出て通りを歩いていると自転車に乗った高市さんに声をかけられた。「サンクチュアリ」に夕食を取りに行くとの事なので同行する事にした。

「サンクチュアリ」で食事後のコーヒーを飲んでいるとひょっこり森本さんが現れた。時間が取れると言うことで急遽インタビューとなった。インドシナという言葉がインドと中国の間の国というヨーロッパから見た歴史観に基づいているというところから話は始まった。ベトナム中部には1世紀から17世紀頃までチャム人のチャンパ王朝があった。メコンデルタにはメルネス人が住んでいた。ベトナムが今の格好になったのは18世紀頃のことでメコンデルタにベトナム人が入ってきたのも18世紀になってからという。タイも同様に以前はチャムと言ったが、チャム人が中国から南下してきたのは13世紀以降だった。これはモンゴル帝国の拡大が影響しているかもしれない。例えば調味料についてもタイの「ナムプラー」、ベトナムの「ニョクナム」も今でこそ両国の代表的な調味料であるが、元々のクメール人は醤油を使わない小魚を発酵させる「ブラフォーク」(日本のなれ鮨に近い)を調味料にしてきた。それがここカンボジアの味の基本になっている。今、森本さんはチャム人やクメール人から見た東南アジア史を織物を通して再考してみたいと思っている。カンボジアの織物を収集していてそれらがいくつかのグループに分けられることに気づいた。クメールの織物、シャムの織物、中国系の織物、南米アンデスの織物である。カンボジアの織物の代表は絹の絣(かすり)「横糸絣」である。現存する世界の絣文化はインド、インドネシア、カンボジアである。日本で知られているタイの絣はクメールの人たち文化の継承なのである。森本さんは以前タイに10年ほどいて、今カンボジアにいるが、クメールの絣文化にたずさわってきた点においては継続した活動と言える。実は昨年11月に沖縄で「絣祭り」に参加したときカンボジアの代表的な絣の柄が沖縄にもあることを発見した。絣の文化は海洋交易によってもたらされたと思われる。「海のシルクロード」は陸路の「シルクロード」に模して言われており、焼き物や香辛料の交易を指していたが、実際にはまさに絹の交易が行われていたという事が分かってきた。クメールの絹の絣はイスラム商人によってパキスタン、ウズベキスタンあたりまで伝播したと思われる。16世紀以前の海洋交易はチャム人やイスラム商人が担っていた。沖縄でカンボジアの代表的な絣の柄が見られるのもその結果といえる。森本さんはこれらの視点からタイのチャム人には織物の伝統はかけらも無いと結論する。クメール人やベトナム人、ラオ人や山岳部族の織っている織物がタイの織物と呼ばれているに過ぎないという。織物文化論は多岐に渡った。「縞模様」という言葉があるがこれは「島渡り」から来ていて「島」とは今のメコンデルタあたりを指しているという。また、沖縄の伝統的な藍染め「泥藍」と同じ技法がクメールの藍染めにある。日本の絣の起源は久留米絣と言われており、16世紀頃に始まっているがこれも、クメールの織物職人が渡来して技術を伝えたのではないかと森本さんは考えている。安土桃山時代は現代の東京・ニューヨークに匹敵する世界交易の中心地だったという。日本の伝統織物の九割はこの時代に生まれたものだと考えている。当時の日本にクメールの影響を受けた「染色ルネッサンス」とでも呼べる時代(100年位)があったと思われる。従来の学説は中国からの技術移転をメインに考えていたが、今日ではクメール起源説が脚光を浴びているという。森本さんにはカンボジアの織物を通して日本、東南アジア、西アジア、インド等の関係が見えてきた。人、物の流れ、動きが歴史なのじゃないかと最近思っているという。16世紀にチャンパ王国が滅びたのだが、15世紀末にはチャムの王様と琉球王朝の御姫様が結婚した記録があったりする。スマトラ島のアチェという王国もチャム人が作ったものだし、インドネシアのイスラム教はチャム人が伝えたものである。スマトラ、アチェ、マレー半島のスンガイコロク、フィリッピンのミンダナオにチャムの人たちが住んでいてカンボジアの絣と同じ絣がある。ミャンマーのサンシュー「シャムの絣」とよばれる絣があるが、チャムの織物ではないかと思っているとのこと。裏付け作業は各地の織物の比較対照により行うという。タイの有名なジム・トンプソンが組んだ相手はシャム人だった。タイにチャンパの人たちがいる理由は、チャンパが滅びた時多くのシャム人がカンボジアに移住したが、そのカンボジアをアユタヤが攻めて、多くの専門家(踊り手、学者、機織り等々)をアユタヤに連れ帰ったからだ。その後アユタヤが滅びバンコクに新王朝が出来たときそこに住み始めたと言うわけだ。歴史は繰り返すというが、アユタヤを滅ぼしたのがビルマで、またアユタヤにいた専門家(踊り手、学者、機織等々)をビルマに連れ帰った。その中にチャムの織り手がいたと考えられると言う。森本さんはその仮説を確かめるべく今年後半にビルマを廻る予定だ。検証の方法はイスラム教がカギという。チャムの人たちはイスラム教だが独特なイスラム教である点。また、織物の道具の共通点からも検証が出来るという。カンボジアに独特な「横絣」の特徴がビルマの絣に見つかればそれが決定的な証拠になるという。森本さんのチャムの伝統織物探求の旅は今後中国の「海南島」、「ベトナム」と続いて行くという。

 話は一転して「鎮守の森」の構想についてになった。なぜ、鎮守の森なのかという私の疑問へ答えていただいた。1960年代までのカンボジアには村々に自給自足の生活形態が存在していた。しかし、長い戦乱の中でその伝統は失われた。森本さんの「鎮守の森」構想はその自給自足の生活形態の復刻という事だという。昨年の洪水を間近に見て、森本さんはあれは木を伐られ過ぎた山の、「自然の痛みの声」だと思ったという。山々は急速な伐採過多によって、保水性を失いつつある。伝統はいつも自然と共にあったが、人間はその自然を壊してしまった。例えば、染色に使う「貝殻虫」を飼っていた森は伐採が進み、環境が変わってしまい、今や「貝殻虫」を飼える状況ではない。さらに例をあげて、伝統にはそれに見合う精神世界があるという。タケオの山の中からやってきた年輩の織り手は決して絹を粗末に扱わない。それが最終的な製品の善し悪しにまで連なる。彼女たちのその精神が若い織り手達に伝わってくれたら良いと思うと森本さんは言う。1年目は土地の整備や苗木を植える位だが、3年目にはそこに住居を構えることも可能と言う。およそ5年もすれば森で「貝殻虫」が飼えるようになると言う。そして最終の目標はもっとずっと長い時間を掛けた伝統の復活を果たす事である。最後に財政的な問題に話が及んだ。状況は決して甘くないが、森本さんはかつてのODA支援を受けた経験から、制約の多い公的資金は決して当てにしないことにしていると言う。

 次に人材育成の成果を尋ねた。森本さんが育ててきた織り手は現在第三世代に入っていて現在25名が研究所で働いている。第一世代は1995年から1996年の間に育ち、第二世代は1997年から1999年に育った。2000年から現在が第三世代だ。第一世代の何人かは自分の村に帰って草木染めや他の織物で生計を立てている。森本さん自身は「内職おじさん」だが、カンボジアの人たちには織り手として生計を立てて行ってもらえればと願っている。森本さんはカンボジアの地で、自分の身につけた技術を教えると言うよりカンボジアの伝統の織りの技術を持っている人たちが生かされる環境を作りたいと思っていると言う。例えば仲買人が大量に安価な製品を要求して、村の年輩の織り手のせっかくの技術を生かせない織物を作っていた状況が1995年頃にあったが、森本さんはその織り手達に3倍4倍の時間を掛けて良いから質の高い製品を作ってくれるようにと頼み、それを日本で行商した。そうして出回った製品はカンボジア国内でも評価されるようになってきており採算ベースに乗りつつあるという。研究所での作業は大まかな指示を森本さんが出し、タケオから来て貰っているベテランの織り手が、色と絵柄を染めるところを担当している。実は織り機に糸がかかる段階では既に作業は80%以上終わっているのだという。シェムリアプの織り手にもこの段階の仕事が出来る人が出始めているという。織り手の個人の持ち味が生かされるような環境作りが出来たらいいと森本さんは思っている。高市さんもパッチワークの指導やら新しい図柄の発案やらで中心的な役割を果たしているという。一方機織りの機械もタケオのベテラン制作者に来て貰い一台一台ハンドメイドで作ってもらっている。釘を一本も使わない木製の織り機だがいくら使ってもがたがこないという。

 今後の展望を「鎮守の森」構想以外に尋ねた。国境近くにかつてのクメール・ルージュの投降兵達の村があり、地雷被害者も大勢暮らしている。森本さんはこの地でも養蚕を広めていきたいと思っている。イデオロギー抜きに、生活の糧を得る場を作る目的で始めたいという。
 製品の販路を尋ねたところ決まった販路はカンボジア国内にも持っていないと言う。しかし、シンガポール、香港、アメリカなどにファンがいてアンコールワット遺跡観光のついでに研究所を尋ね、自分たちの気に入ったモノを定期的に購入していくという。4年ほど前にニューヨークタイムズに記事を書いて貰ったことがあってその影響だろうとのこと。日本人もちらほら立ち寄るが自分が気に入ったから購入するのではなく、ガイドブックに載ったから購入するという傾向があるという。誰が作っているかなどは問題にせず良い製品だから買うという態度が一貫している欧米人の方が自然な感じだという。
 5年、10年と使っていって良さがますます出てくるような製品作りを続けていきたいと森本さんは言う。以前日本のアパレル業界の人たちと懇談したとき、草木染めは染めた直後より3年後、5年後、10年後の方が色が良くなり、研究所で織った布はその期間の使用に耐えられるものだと説明した。彼らの反応は「それでは困る。」と言うことだった。彼らは毎年新しい製品を作って売らなくてはならないからだと言われて、森本さんはその時、自分の製品作りのスタンスが彼らのそれの対極にあることを痛切に感じたという。森本さんは「消費文化」は「ゴミ箱文化」だと言い切る。そして、製品を持って日本中を行商に廻っていて一番楽しいのは金儲けではなく、いろいろな人との出会いがあることだという。
 話は援助論に展開した。シェムリアプにも地雷の被害者がいる。彼らの多くは主に観光客相手に施しを求める事で生計を立てている。森本さんが彼らに「うちに仕事があるから、やらないか。」と声を掛けるとみんな逃げていってしまうと言う。中にはバイクの修理やをやっている地雷被害者もいるが、それは希な事だという。「モノを与える援助は貰った人をだめにしてしまう。」と言うのが森本さんの結論だ。
 最後に私と森本さんの関係について少し話をした。森本さんとは1998年に私が瑞穂生涯学習センターで企画した、全国で始めての連続10回の地雷問題講座の講師として来ていただいたご縁だった。以後私は森本さんが時折帰国して、カンボジアの絹織物を販売する会場に出かけていき製品を購入するという関係が続いて来ている。今後も消費者としてのおつき合いをお願いし、快諾を得た。森本さんは、研究所の製品を購入してくれる人を支援者と思っていると言う。個々の製品の質はますます良くなってきているという。
 夜も更けて徒歩でホテルまで帰ろうとする私を森本さんは愛用のオフロードバイクで送ってくれた。確かに街灯の光もまばらな通りは安全とは言えないようだ。宿の門に到着いてからもしばらく異常がないか見ていてくれたらしく、バイクの音が響いていた。

 2月10日、余り気乗りもしなかったが宿の亭主の薦めで一日タクシーを借り切り(20ドル)アンコールワット観光に出かけた。朝8時に迎えにきた運転手は到着した日に乗ったタクシーの兄のユー・チョウンだった。彼の英語は私には半分も聞き取れなかったが誠実な対応振りだった。中華料理店で朝食を取り、クメール織物研究所に寄って、高市さんの解説を聞きながら草木染めの絹織物をかなり買い込んだ。おみやげ用にも使いたいと思ってだったが、高市さんにはあきれ顔をされてしまった。その後ユー運転手の巧みなリードで土産物屋に立ち寄った。手頃な値段の「箸」のセットと銀メッキの小物入れを買った。

 いったん宿に帰り、買い物をバッグに詰めてから目指したのがアキ・ラの「地雷博物館」だった。ここだけは是非寄ってみたいと思っていたので胸が高まる思いであった。森本さんから話は聞いていたが、地雷博物館は本当に小さな村の一角にバラックの小屋があるだけの簡素なものだった。あいにく結婚披露宴の翌日という事でアキ・ラは博物館にいなかった。入場は無料で、私の前に韓国の旅行会社の大型バスに乗った韓国人ツアー客が30名ほど来ていた。日本語と英語の看板があったのには驚いたが、日本人観光客が非常に多いことを考えれば当たり前かと思った。展示してある地雷の種類の多さと数の多さにびっくりした。火薬を抜いた小型のプラスチック製の対人地雷から大型の対戦車地雷、アメリカ製クレイモアと何でもありだ。本当にこれを一人で除去したのか本人に尋ねたかった。見張りの責任者にいくつか地雷を購入したいと申し入れたが答えは「ノー」だった。当局からにらまれている状況からすれば(昨年末にアキ・ラが一時爆発物の不法所持で拘留された)当然の答えかと納得した。英語と日本語の薄い資料と地雷禁止の派手な図柄入りのTシャツを買い込み地雷博物館を後にした。

 運転手のユーさんが外国人がほとんど入って行かない市場に案内すると言うので行って貰った。走ること20分くらいで町はずれの市場に到着した。ものすごい人混みだ。乗り合いのトラックや長距離の大型輸送トラックも出発を待っていた。ここが本当の物流の拠点なのだと一目で分かった。タクシーの外に出るのは無謀と感じたので出なかった。なるほど外国人はほとんど見かけない。午前中の行動はこれまでとしてレストランに案内して貰った。レストランの名前は 「ベイヨンレストラン2」と言ってシェムリアプ川沿いの店だった。レパートリーが豊富で味も良かった。少し高めの料金だがお勧めだ。帰っていいと言っておいたのにユー運転手は食事が終わるまで待ってホテルに送ってくれた。

 ホテルの部屋がまた(昨日も変わっていた)変わってバス付きの上級ツインになった。料金も25ドルだと言うが文句はない。ゆっくりと昼寝をして午後3時にアンコールワット遺跡に向かった。アンコールワット遺跡は一言で言うならまさに廃墟だ。かつての華やかな仏教文化の名残が遺跡のあちこちに見られ、多くの僧侶の足跡が見えるような気がする反面、ほとんどの仏像の首が無くなっていて長年の戦争の傷跡が生々しく感じられた。また、入り口あたりまで頼みもしないのに15歳位の流ちょうな日本語をしゃべる自称ガイドがつきまとい余り感じの良いものではなかった。料金は幾らでも良いと言っておきながらいざ払う段になるともっとよこせと言うのも腹の立つ事だった。ユー運転手が是非見ておくべきだ言うので近くの山の頂上に登り日没を待った。狭い頂上には英語、ドイツ語、広東語、フランス語、日本語、その他が交わされ喧噪の状態だった。あいにく雲がかかり美しい夕日は見られそうに無かったので皆より一足早く下山した。ホテルに戻ってから、再びシャングリラに行って夕食を済ませた。

 しばらく待って今日のインタビューの相手中村健司氏他二名と会った。中村氏は関西の大学で国際法を学んでいる学生だ。彼の印象は切れ味鋭い刃物と言ったところ。ただユーモアのセンスも持ち合わせており柔軟性に富んだ人柄と思った。話題は多岐に渡ったが、カンボジアや他の開発途上国が抱える貧困の問題に焦点が合っていたように思う。他の二人も彼に導かれるようにカンボジアの地を訪れ、カンボジアが抱える問題の深刻さに声を無くしたという風情だった。まとまった話では無かったが、日本の若者が世界の貧困その他の問題に真剣に関心を持って、何かをしたいと思っていることが分かり大変うれしかった。

 2月11日帰国に先立ち再びクメール伝統織物研究所を尋ねた。森本さんのコンピューターを拝借してアメリカの友人にメールを送った。そのうち、「情熱大陸」の一行が研究所を訪れた。今日は研究所のビデオ撮影だという。私は船戸与一氏にも他のスタッフにも声を掛けずじっとビデオ撮影の様子を見ていた。人との出会いは自分が求めていない時には積極的になれないからだ。説明をする森本さんの横顔にもう一つの顔があることが感じられた。しばらく撮影を見学してから研究所を辞去して帰国の途についた。

 シェムリアプの空港を飛び立った飛行機は2時間ほどでタイのバンコック国際空港に到着した。上空から見るタイの町並みは、カンボジアのそれと比べ遙かに洗練され、繁栄の雰囲気があった。名古屋行きのタイ航空便は午前1時50分出発と言うので、長い長い待機に入った。途中足の裏マッサージをして貰ったが、何しろ長い待ち時間でうんざりした。早く直行便が出来ることを希望したい。
翌日12日朝、名古屋空港に到着し初めてのカンボジア訪問は無事終わった。次回は6月頃またカンボジアの大地を踏みしめたいと思っている。

                           (2001年3月31日更新)                      

シェムリアップ紀行(2007年5月)(その2)

 パスポートの記録では12回目のシェムリアップ訪問である。今回は気楽な一人旅。5月24日午後2時に到着したタイのスワンナプーム新国際空港は例によって効きすぎの冷房が不快だ。待ち時間の4時間余りがとても長く感じる。バンコク・エアーの待合室は以前の空港よりも広くて豪華だ。シェムリアップまでの約1時間のフライト後、飛行機の窓から空港近郊の人家の電燈の明かりが数多く見える。2000年に初めて訪れた時には全く燈火が見えなかったことを思い出すと変貌振りに驚かされる。午後8時到着。アライバル・ビザ申請のためにイミグレーション・カウンターに並び100ドル紙幣を出すと小額紙幣を出せと言う。もみ合いになったが、突っぱねると75ドルのおつりが返ってきた。街までの交通手段はタクシーなら5ドル、バイクは1ドル。タクシーを選んだ。

 午後9時にカーサ・アンコール・ホテルでチェックイン後、行きつけの日本レストラン「芭蕉」を訪ねた。オーナーの水津さんはタイに買出し中で留守。シェフの小田さんと再会の挨拶後水津さんから依頼されていた本と水素蓄電池を代引きで渡した。あまり冷えていないアンコールビールがうまい。店には他に客の姿もないのでしばらくして、早仕舞いしていただき韓国飲み屋で一杯やる。少々飲みすぎ、何を話したかとんと記憶にないが、次回訪問時に「英辞郎」のCDを土産に持参する約束をした事だけは覚えていた。

 25日午前6時起床。タクシーを半日貸し切りにしてアキラ(地雷博物館)、トゥン・チャン・ナレット(1997年ノーベル平和賞受賞者)、IKKT(クメール伝統織物研究所)を訪ねることにする。ホテル専属タクシーで25ドル。多少高いが遠方まで(アキラの新博物館はバンテス・レイ遺跡近くで40分ほどかかる)のドライブを含うためやむなしとする。

 道中全て舗装道路。約35分の快適なドライブでアキラの新博物館に到着。入り口にうっかりすると見落としてしまいそうな小さな看板が一枚あるのみ。間口はそう広くないが奥行きはたっぷりある。約2,000平方メートルといったところか。不発の爆弾を立てたモニュメントが最初の売店(兼受け付け)建物への路沿いにある。地雷展示館、二棟と資金援助をしているカナダのNGO(CAMMLA)のオフィスが既に完成している。奥の方に建設中の建物が見える。居住棟と大型の一棟、ほかにもまだ建設予定地のみ決まっているらしい場所も見える。対人地雷のディスプレイは以前と違い、金網でしっかり固定されている。手にとって見ることはもはや不可能だ。展示の方法についても支援NGOの意向が強く出ているようだ。聞くところによるとアキラは雇われの所長に納まったという。
 受付の車椅子の女性にアキラの所在を尋ねると「奥にいる。」と言うので回廊を歩いていくと奥さんのワットに会った。こちらから「覚えているか?」と訪ねると、にっこり笑って「もちろん。」と応える。アキラは売店隣の建物(CAMMLAのオフィス)に居た。引越しの荷物がまだ十分片付いていないが、机と椅子はセットされ、コンピューターも配線されている。アキラの表情がなぜか暗い。最初、三省堂から預かった本「アキラの地雷博物館」を手渡した時には笑顔を見せたが、後はにこりともしない。
体調を尋ねると、「おなかの具合が悪い。薬を飲んでいるが、少なくなってきて心配だ。」と言う。病名を尋ねるが分からないという。身体を動かすのが難儀そうな感じだ。
 以前から預かっている子どもたちについて尋ねると、総勢20名で上が20歳、下は4歳とのこと。学校は近くにあるので就学についての問題はないとの答え。金銭的な問題はCAMMLAがスポンサーになって心配する必要が無くなったとのことで、以前やっていたガイドの仕事も今はやっていないと言う。もちろん地雷除去のできる身体ではなさそうだ。
 アキラは話をするのもしんどい様子のため、10分くらいで切り上げた。別れの握手が弱弱しく感じられた。翌日遭った関係者によると、アキラは複数の疾病を併発しているとのことでようやく合点がいった。

 次に向かったのはイエズス会サービスのトゥン・チャン・ナレット。しかし、いつもの事ながらノーベル賞受賞者の彼のことを知る運転手に出会わない。国道6号線を空港に向かい、小さな看板を見逃さないように目を凝らす。結局行き過ぎて戻ってもらう。イエズス会サービスの入り口近くの車椅子工房にレットがいた。仲間4人と会議中だったが、いつものように快活に握手を求めてくる。両足を失った元兵士は今回も元気だ。
 家族の様子を尋ねると皆奥さんと5人の子どもは皆元気だが、それぞれ忙しいという。特に大学に進学した二女はプノンペンからめったに戻ってこないとのこと。以前進呈した、ロングマンの英英辞書と買い替えのために譲った電子辞書は親子で使っており、重宝しているとのこと。もっと電子辞書が欲しいというが、そうそうは買い替えできないのでと断り、紙の英英辞書ならひょっとして持って来られるかも知れないといっておく。
 NGOの活動状況を聞く。昨日までプノンペンで会議に出席していたとのこと。世界中の会議に良く出かける彼にとっては普通の事らしい。最近ではイエズス会サービスも各国からの資金援助が減少して活動が縮小傾向にあるらしい。確かにカンボジアの地雷被害者が2005年に800人いたのが2006年に400人に減少した。しかし、これは一時的な現象と考えられる。カンボジアの埋設地雷が極端に減った訳ではないからだ。レットも国際的な関心が他の国々(アフガン、イラク等)に移ってしまったことを深刻に受け止めている。
 今、国際的に話題になり、関心を集めているクラスター爆弾について尋ねてみると、前から良く知っていたという。ERW(戦争残存爆発物)としては、地雷と並んで不発爆弾が非常にやっかいな問題であったし、実際に被害者も多く出ているとのこと。今回のCMC(クラスター爆弾連合)主導によるクラスター爆弾全面禁止条約締結に向けての動きに期待したいとのことであった。
 彼が個人的に関心を持ち、取り組んできた、四肢麻痺をもった一人の農村女性への援助活動に話が及んだ。レットが個人的に募金を集め、一ヶ月あたり20ドルの支援をしているのだが、イエズス会サービスの内部で「個人プレー」だという批判がでているとのこと。彼としては緊急の最小限の援助としてやむなく着手したようだが、個人で募金を集めるのは会としてはご法度のようだ。私がそのレットの個人的なドナーであるため、彼に今後どうするか尋ねたところ、立場が悪くなっても援助を続けて行きたいと言う。結果、今回も1年分の240ドルを彼に託した。今回、援助している対象者の写真、氏名、援助内容のレポートを受け取った。会議を中断しての会談だったため、写真を撮って20分ほどで辞去した。

 イエズス会から15分くらいで最終の目的地であるIKKTに午前10時30分ころ到着。
とりあえず、お土産用の絹のハンカチなどを買い込む。売店担当の女性の日本語は前回訪問時よりかなり進歩している。買い物はVISAカードも使える。結局あれやこれやで300ドルほどの買い物となった。
 いったん昼食のためにクメール料理のレストランに入り、ハウスワインとなまず料理で昼食を取った後、ホテルに帰りチェックアウト(AM12:00)して再びIKKTに向かった。
 IKKT代表の森本喜久雄さんは事務机のうえに昼食を広げていた。「昨日(24日)ドイツから帰ってきたところです。」と例の笑顔で迎えてくれる。用意した水力発電に関する書籍数冊を手渡した。『伝統の森』に水力発電導入を考えていると昨年聞いていたので日本国内での事例などの書籍を集めて持参したもの。
 ドイツでの話の中で、新しく『IKKTドイツ』が立ち上がったと破顔する。「ドイツはフランスと違って迎え方が暖かかったし、話もすごく熱心に聴いてくれた。」と言うので通訳付きでしたかと尋ねると、「英語で直接語り掛けました。」との答え。英語はドイツの繊維関係者の中ではかなり使われているようだ。ちなみに、森本さんはどこで講演するときも原稿は一切用意せず、聴衆の反応を見ながらその場でアレンジするとのこと。長年の豊富な繊維関連の経験と海外生活での生きた語学がなせる技というところか。
 ドイツでも小規模な製品販売をしたそうで好評だったとのこと。価格はシェムリアップの工房販売店価格の1.5倍に設定しているそうだ。なお、今後もショップ直営方式は維持したいと言うが、シェムリアップ市内の某博物館に出店のオファーを受けており、スタッフと今後どうするか協議中だとのこと。

 25日夜に『伝統の森』に一泊させていただくことになっていた。当初午前中の出発と言っていたが、結局出発は午後4時となった。研究所の女の子も一人同行した。途中で食物を仕入れ、約1時間で到着。ゲストハウスが出来上がっていると聞いていたので期待していたが、配水と配電が間に合わないため結局使えないことになった。『伝統の森』には既に100人ほどの村人がカンボジア各地から集まり、生活を始めている。学校も一応ある。前に訪れた時には建設中だった建物も完成し、既に数家族がそこで居住していた。
 『伝統の森』の現況について森本さんからいろいろな話を伺った。一番の問題点は『人』のこと。要するに「仕事をしない」人が多すぎるというのだ。いつも森本さんが目を光らせていないとすぐ仕事をサボり、遅々として作業が進捗しない。特に男性に「ぐうたら」が多いと言う。女性に依存してしまう傾向が一般的にカンボジア男性に見られるという。
電力問題は現在10キロワットのソーラーパネルが稼動しているという。暗くなってから5時間の点灯とTV、DVDプレイヤーを動かしても十分まかなえるとのこと。水についても、今後きれいな水の出る井戸から電動ポンプで各戸に給水することを考えている。 
年内にシェムリアップから、さらに30名以上が移住してくる予定で、入居棟の整備が急務だと言う。今後、村に『なんでも屋』的な売店を作り、日常生活に必要な物資を全て賄えるようにして村人の利便を図りたいと意欲満々だ。
 夕食は村の女の子が4人かかりで作ってくれた。骨付き豚肉、卵料理、ピーマンのあえものでなかなか美味だった。森本さんは下戸なためアルコールが無かったのが残念。食後はカラオケ(クメール語の)タイムで、子どもたちが夜遅くまで楽しんでいた。私は大音響のカラオケにもめげず、午後10時就寝。蚊帳をつってマットレスを敷いた板の間に寝た。今回で二回目の経験だ。風がほとんど無く、やや蒸し暑かった。
 翌朝(26日)午前5時に鶏の声で起床。窓から見ると村人の家では子どもも含めて皆起き出し、家廻りの仕事を始めている。階下の作業場の就労時間は午前9時から12時、午後0時から2時までお休み。午後2時から4時までが作業となっている。ちなみに週休1日(日)制だ。
 朝食後に森本さんのタイ時代からの26年来の友人、塩崎さんが到着。塩崎さんは『伝統の森』で農業指導をしている。彼の案内で農場に出かけた。湖の反対側にあって、歩くと炎天下で20分くらいだ。まだ半分くらいしか開墾できていないというが、約1,000平方メートルの土地にピーマン、長エンドウ、きゅうり、オクラ、なす等が作ってあった。一部を昼食用に収穫した。将来的にはパセリ、セロリなどのシェムリアップのホテルに高価で売れる作物を栽培する予定だと言う。塩崎さんはタイの元商社マンで主に生鮮野菜を日本に売っていた。そんな関係で『伝統の森』の農業指導をしているとのことだった。彼もまた、カンボジア人がいかに働かないかをタイ人と比較して熱心に語っていた。しかし希にカンボジア人の中にも勤勉な人もいるそうで、そういう人は却って浮いた存在になってしまうとのこと。複雑な思いであった。
 昼食も質素ではあったが、新鮮な野菜の入った焼きそばで美味だった。氷入りの水がさりげなく添えられたが、念のため口をつけなかった。
 森本さんとのよもやま話の中で、『伝統の森』の池で魚が取れるという話が出た。いろいろな魚が住んでいるらしい。釣竿があるというので早速釣りに挑戦となった。面白がって子どもたちもついてくる。餌はシェムリアップの街で買った白えびだ。かき揚げてんぷらにするとおいしそうなえびだった。真昼の炎天下での2時間ほどの釣果は4匹だった。10センチ程の平アジの子どものような魚は食用になるとのことで子ども達がいつの間にか持ち帰った。午後2時、ついに暑さに耐えかねてギブアップした。今回はリールに巻いた糸の量も少なく投げ釣りが出来なかったので、次回は自前の竿を持ち込むことにする。

 午後4時00分の出発間際にランドクルーザーのイグニッションが不調でエンジンがかからない。飛行機の出発時刻が午後8時でややあせったが、如何ともし難い。4時30分頃やっとエンジンがかかり出発した。ところが、途中の村の道で、開墾した農地を見て森本さんが激怒する。村人に何やらクメール語で怒鳴り散らしている。こちらはクメール語が全く分からないので事情が掴めず、自動車の中で待っているよりなし。20分ほどして、塩崎さんの取りなしもあって終息。帰りの道中で森本さん曰く、「言葉の行き違い」だったとのこと。彼は開墾した土地の土質が悪いため「土を新しく入れ替えなさい。」と村人にクメール語で指示した。しかしクメール語の「土」と「土地」と「地球」は同じ単語を使うため、村人は彼の言葉を「新たに土地を開墾しなさい。」と取ったらしいとのこと。その土地には7年前に植えて、やっと大きくなった桑の木が植えてあったので森本さんがキレたという訳だ。10年もカンボジアに住んでいる人でもこんな誤解を経験するクメール語の世界の複雑さが垣間見られる事件だった。帰りの道中あちこちにスコールで出来た水たまりがあり、数時間前に激しい土砂降りがあった事を物語っていた。

 午後6時には街に戻り「芭蕉」でアンコールビール1本と大急ぎの夕食を取り、午後8時のバンコク・エアー便でシェムリアップを離れた。タイの空港でまたまた冷房に悩まされつつ3時間待ち、27日午前1時発のタイ航空便で帰途についた。大して眠れないまま、午前8時に名古屋空港に到着した。当日午後には地雷とクラスター爆弾の学習会を企画していた。

 今回も多くの出合いに恵まれた。対人地雷問題に取り組み始めて9年経つが、シェムリアップ詣では単に地雷のNGO活動とは言えない年中行事の様相を呈して来ている。

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