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見聞録(地雷関連講演会)

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「韓国の地雷は今ー韓国の地雷被災者を招いて」
 2001年6月29日(金)於 大阪「キリスト教ミード社会館」

 2001年6月29日(金)大阪においてJCBLおよびKCBL共催の韓国に於ける地雷問題のシンポジウムが開催された。会場の大阪市淀川区十三のキリスト教ミード社会館には約50名が参加し、韓国の地雷問題の実態と被害状況の報告を受けた。シンポジウムの詳細は以下のとおり。

(総合司会ーJCBL運営委員 清水俊弘)

 皆さん、こんばんは。本日はお忙しい中お集まりいただきましてありがとうございます。私は本日のこのJCBL、KCBLの共同シンポジウム「韓国の地雷は今」、韓国の地雷問題についてのシンポジウムの司会をさせていただきます、地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)運営委員の清水と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします。今日は地雷廃絶日本キャンペーンと韓国の地雷廃絶キャンペーン共催で「韓国の地雷の問題」を取り上げますが、これは私どもも含めてなかなか情報が無かった問題です。きっと、こんな事が起きているのかと驚くことが多い内容になるかと思います。2時間ほどの時間ではありますが、皆さんと情報を共有して、今後この問題をどうしたら良いのかという所までお話しできれば幸いです。
 では、開催に先立ちまして、本日の大阪でのシンポジウム開催にご尽力いただきました大阪神愛教会の岩村先生からご挨拶をいただきたいと思います。

(大阪神愛教会 岩村牧師)

 お疲れのところお集まりいただき、牧師として共に祈りを捧げられることに感謝いたします。これを機会に問題の解決に寄与できるよう願っています。それでは、お祈りを一言だけ捧げたいと思います。愛する我らの主イエス・キリストの父なる神に、貴方の御哀れみと豊かな祝福の内に今日も生かされていることに感謝いたします。私どもは不思議な出会いによって、こうして貴方の恵みをいただくことができますことを感謝いたします。大切な私たちに与えられた課題、この問題を一緒に取り組んでいくことが出来ますように力を注いで下さるよう祈ります。貴方の言葉によって力を与えられ、これからも祈りを続けて参ることが出来るように終始お導き下さい。終わりまでこの時を祝福して下さるように祈ります。主の御名によって感謝をしてお祈りします。アーメン。

(JCBL運営委員 清水俊弘)

 ありがとうございました。なお、お手元の資料にありますように私どもJCBLおよびKCBLはそれぞれの国において主に国際協力の活動分野で活動しているNGOのネットワークです。これ自体が一つのNGOという訳ではなくいくつかのNGOが共同で運営しているグループになります。後ほどこの赤いパンフレットをご覧になっていただければ、どんな団体が参加して活動しているのかがお分かりになると思います。続きまして私どもJCBL代表の北川から一言ご挨拶させていただきます。

(JCBL 代表 北川泰弘)

 皆さん、こんばんは。JCBLの北川と申します。JCBLとKCBLが出来たのは1997年でありまして、アルファベットで言ってもJとKと言うことで兄弟のようなものです。共に人道的な立場で地雷を無くそうと活動しています。お互い隣の国同士なのに、何をやっているのか良く分からなかったのですが最近交流が盛んになって、この共催によるシンポジウムを開くことになりました。昨日、一昨日と一緒にお話を伺わさせていただき韓国の実状には驚くことばかりでした。今日はKCBLの方々にはるばるここにお出でいただきまして感謝申し上げますと同時に岩村牧師様、佐野牧師様のご尽力によりこの立派な会場を設けていただき、厚く御礼申し上げます。これからの勉強を一緒にやって行きますのでよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

(JCBL運営委員 清水俊弘)

 続きまして本日この会のためにはるばる韓国からお出でいただきましたKCBLのメンバーの皆様と、残念ながら地雷の犠牲になってしまった少女と同行されたお父さんをご紹介させていただきます。まず最初にKCBLのコーディネーターの趙載國さんです。次にKCBLメンバーで写真家でもあります李時雨さんです。そして、KCBL事務局職員の金志勇さんです。そしてKCBLの後援者であります李俊緒さんです。2年前に地雷の被害に遭ってしまった9歳の女の子、金有情さん、お父さんの金義泰さんです。ありがとうございます。


 本日の流れですが、まず皆さんいろいろなメディアを通じて既にある程度はご承知かも知れませんが、地雷の問題が世界でどのように認識され、どういう対策が講じられてきたかというポイントを確認する説明を私どもJCBL運営委員の目加田から簡単に説明させていただきます。そしてその後に実際におきてしまった事故について、当事者がどう思っているかを証言いただきまして、そして、なぜそう言うことが韓国で起きたのかという背景説明を含めてKCBLの取り組みについて趙先生にお話をお願いしたいと思っています。その後でその問題を解決するためにどういう調査を行っているのか、現状をどうなっているのかを写真で紹介しながら李さんにお話いただき、最後に皆さんのご質問にお答えしたいと思っています。最低30分くらいは皆さんの質問をお受けしたり、意見交換をしたいと思いますのでよろしくお願いします。では、プログラムに従いまして、JCBLの目加田から地雷問題の背景説明をさせていただきます。

(JCBL運営委員 目加田説子)

 皆さんこんばんは。JCBLで運営委員をしております目加田説子と申します。清水からご紹介させていただきましたように地雷問題と廃絶運動の経過説明を簡単にお話させていただきたいと思います。今日の議題はあくまで韓国の地雷ということですので本当にごく簡単に今まで対人地雷の問題がどのように世界の中で取り組まれてきたかをまとめさせていただきたいと思います。


 対人地雷という兵器はそもそも第一次世界大戦、そして第二次世界大戦を通じて大量に使われてきましたが、最大の問題は1960年代から1980年代にかけて内戦において使われてきた事なのです。例えばカンボジア、アフガニスタン、ボスニア等でたくさん使われてきました。そしてだいたい年間2万4千人くらいが対人地雷の被害に遭っていると言われています。これがどれくらいの頻度かと言いますと約20分間に一人くらいの割合で犠牲者が出ている計算です。冷戦時代に於いては対人地雷を全面的に廃絶しようとする運動は盛り上がることがなかったのですが、1990年代に入りまして内戦に使われる対人地雷の問題があまりに悲惨であるという認識が高まり、1992年に世界のNGOが一緒になってこの問題に取り組めないかということで地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)を立ち上げました。韓国の取り組みはKCBL、日本の取り組みはJCBLですが、国際版がICBLという訳です。


 ICBLが地雷廃絶の条約を成立させようと運動を行ってきました。最終的には1992年の12月、条約は成立しました。対人地雷全面禁止条約です。全面禁止とはどういうことかと言いますと作ってもいけない、もちろん持ってもいけない、そして譲渡と言って輸出入する事もいけない、全面的に禁止しようと言うものですけれどこの条約が1997年に作られました。日本では我々のキャンペーンが1997年の7月に誕生して、政府に対して「どうぞこの条約に参加して下さい。」とキャンペーンをして来ましたが、幸い日本政府は1997年に条約に署名し、1998年に批准しました。そして1999年3月に条約が発効したのですが、その時から締約国になっています。日本の自衛隊も約100万個の地雷を保有していたのですが、この条約の中では締約国になってから4年以内に全ての地雷を廃棄しなければならないと言う条項がございますで、日本政府もその履行義務に沿って地雷の破壊を続けている現状です。


 残念ながらこの条約には地雷大国と呼ばれている国々が加盟していません。どういう国々かと言いますと、アメリカ、中国、ロシア、そして冷戦の残骸が残っている朝鮮半島の韓国と北朝鮮、そしてイスラエルを始めとする中東の多くの国々です。私たち日本キャンペーンも世界中のキャンペーンも一つでも多くの国がこの条約に入ることによって条約が普遍化されていくように活動を進めてきました。具体的には本日の議題である韓国のキャンペーンとともに日本のキャンペーンも、隣の国のことは関係ないという認識ではなく、もしかしたら日本でも地雷が使われていたかも、実際地雷が備蓄されていたという認識でJCBLとKCBLは協力をしているという現状にあります。そしてこの対人地雷全面禁止条約には現在140ヶ国が署名しています。さらに一ヶ国でも条約の署名国が増えるように今後も活動を続けていきたいと考えています。以上簡単ですがこれまでの取り組み等について述べさせていただきました。ありがとうございました。

(JCBL運営委員 清水俊弘)

 では、続きまして残念ながら起きてしまった事故について当事者達の思い、そしてその時の状況等について、本人が語るにはあまりにも幼いということで、今回お父さんにお越しいただきましたので、2年前の事故当時の状況そしてその後のご苦労などについてお話ししていただきたいと思っています。なお本日スピーカーでありながらかつ通訳を趙先生にお願いしてありますので併せてよろしくお願いいたします。では、お父さんからのお話をお願いいたします。

(金義泰) (通訳)KCBL 趙載國

 こんにちは。1999年6月26日午後4時頃ですが、お婆さんの所に預けられていた金有情は2歳年上の兄とテレビを見ていました。その時、お爺さんとお婆さんは仕事で畑に行っていました。兄が何か食べたいと言うことで冷蔵庫の方に向かっていって、冷蔵庫を開けた時、有情は「足遊び」で床をたたいていました。その時、何か「ポン」と音がして地雷が爆発しました。爆発は煙がすごくて、兄には何も見えなかったということです。有情は必死の思いで何とか外に出ようと5メートルほど離れたドアの所に這って行きました。やっとの思いでドアの所にたどり着いた有情は立ち上がろうとして壁に手をつきました。その跡は今でも残っています。右足は足首のところで切断されていました。左足は親指の先の方が切断されていました。病院に運ばれた有情はその後一年間に5回も全身麻酔の手術を受けました。これらの手術費用の賠償請求を韓国政府に対して行ったのですが、結果が出るのに何ヶ月もかかった上に、国の決定は有情に70%の責任ありとし、国は30%の責任を取るというものでした。これにはがっかりしました。それで今、弁護士を通じ異議申し立てを国にしているところです。


 有情は2000年4月に義足をつけて歩行訓練を始めました。義足はかなり高価なもので30万円位します。子どもは成長しますので中学生になる頃には新しいものを作る必要があります。大変残念なことに国の基準では義足は一年に一足と決まっています。大人なら良いのですが子どもの場合成長が早いので一年に二回作り替える必要があるわけです。それで、治療費も大変膨大なものになる訳です。ですが、国は法規を盾にとって治療費の負担をなかなか認めてくれないのです。これから有情の被害の状況、


 後遺症について少しお話しします。なんと言っても一番大きいのは「心の傷」だと思います。友達からいじめられたり、小さな子どもに会った時びっくりされることがあるのです。2番目は自分の傷跡を友達に知られたくないため、友達と遊ぶのを避ける事になりました。地雷に被災した後、火薬の影響と思われますが身体のあちこちに「できもの」が出来たりします。これからどんな風になるかとても心配です。本当に願うのは国が地雷の管理をもっとしっかりしてもらって事故が起こらないようにして貰いたいと言うことです。そして、もし事故が起こったら国が責任をとって欲しいということです。最後に申し上げたいのは私と子どもの願いは、肉体的な苦痛以上に心の傷、あるいは悩みが深刻なので、その解決に向けて社会状況が整備されることを望みたいということです。


 本当にお見せするのはつらいのですが、皆さんせっかくお集まりですので、有情の傷痕をお見せします。写真を撮っていただき今後の支援に役立てていただきたいと思います。
爆発したのは警察で破片など調べたところM14プラスチック対人地雷だと分かりました。M14は「足首の地雷」と呼ばれているほど、踏んだら足首の所で吹き飛ばされてしまうのです。それで右足はこのように切断されているのです。左の方は足の上方の肉がえぐり取られてしまっています。お医者さんは左の足も切りましょうと言ったのですが、私が絶対だめだと言ったので何とかそのまま残し、身体のあちこちから皮膚を取ってそこへ何度も移植したのですが、今度は皮膚を取ったところの傷跡がすごく残ってしまいました。有情は女の子なのでこれから大きくなったときどうするのだろうと大変心配です。ともかく左足を切らなくて済んだことは幸いでした。


 私はこういう状況のためしばしば会社を休まなければならず、3ヶ月前に仕事を変えました。私の状況を理解してくれる会社を探すのは骨の折れる仕事です。残念ながら妻とは少し前に別れましたので私が有情を支えて行くしかありません。政府との闘いはこれから何年も続くと思います。最高裁判所まで争いが行くかも知れません。

(KCBL 趙載國)

 本日はわざわざ有情さんとお父さんにこの会場に来ていただき、傷跡まで見せて気持ちを表そうとしていただいた事に対して拍手をもってこれからの支援のエールを送ってあげて下さい。ありがとうございました。(拍手)有情さんは日本に来て皆さんの暖かい心に触れ「ありがとう」という日本語が言えるようになりました。

(JCBL運営委員 清水俊弘)

 今は義足をつけて元気に歩いているように見えますが、ここまで来るのにはすごい時間がかかっただろうなと考えさせられました。では、なぜこういう事故が起こったのか、どういうところでこれが起こったのか、これについてはかなり皆さんの予想を裏切る話が出てくると思います。そして、どうして国はそれを認めないのかの背景にある問題を趙さんにさらに説明を続けていっていただきたいと思います。

(KCBL 趙載國)

 私は以前大阪の在日韓国下野教会で6年間牧師として務めた者で、また同志社大学でお世話になったことがあります。今は韓国に帰りまして安養大学で教えながら地雷問題に取り組んでいます。その中で佐野先生にお会いして韓国の地雷の状況のお話をしましたところ、深く理解して下さり、本日のこのすばらしい場所をお借りできるようにしていただきこういう集会が出来るようになり本当に感謝しています。また、私をここまで導いて下さった在日韓国教会の先生方に感謝します。


 先ほどの有情さんが被害を受けた場所がどこかと言いますと、一般的に地雷がたくさん埋められていると言われている非武装地帯から400キロメートルくらい離れた所です。大きな焦点である非武装地帯のことを少しだけ説明させていただきます。これは韓国の地図ですが非武装地帯は直線ではありません。そしてこのあたりに地雷がたくさん埋まっています。その数は120万個くらいでその密度は世界一です。逆に言いますと地雷除去が世界で最も大変な所だということがお分かりいただけると思います。この地域は観光地化されています。次に後方地域の地雷原というものがあります。これの18番目の地域が大田と言いますがこれの左方に洪城郡という町があります。ここに有情さんの家があって、地雷の事故に遭いました。一番近い地雷原は智基山というところにあってここからは10キロメートル位離れています。それで有情さんの事故の地雷がどこから来たのか分かりません。ただ、一般の人達がこれだけ地雷に接しやすい状況になっているということです。地雷原があちこちにありますので地雷もいろいろなところで発見される訳です。別の事例を紹介しますと、資料にもありますが、ある韓国電力の社員が電柱に上がって電線の修理をして地上に降りたところ、地雷を踏んでしまい足を切断したというものです。ここも地雷原では無いところでした。よく被害に遭うM14対人地雷はこういうものです。これは小さく、プラスチック製です。この地雷は100年あるいは150年も爆発可能で、安全のためには除去するしかありません。ですが、このアメリカ製の地雷は金属探知器では探知不可能です。ただ、材質が特殊なプラスチックのため破片を調べればすぐに特定出来ますし、負傷者の切断した傷跡を見てもすぐ分かります。韓国にとって地雷問題は大変大きな問題です。
 幸いなことに先ほど目加田さんからお話を聞きましたように、オタワ条約(対人地雷全面禁止条約)というものが1997年12月に成立してから、本当に多くの国々がこれに加入して、地雷を使用しない、今埋設されているものは除去する、備蓄しているものも廃棄するようになっています。日本も2年前にこの条約に加入し、国会で批准もして、備蓄していた100万個ほどの地雷を滋賀県に工場を造ってどんどん廃棄しているわけです。JCBLはこの一連の動きに大きな役割を果たしました。


 韓国ではどうかと言いますと、韓国政府の立場というものは皆さんのお持ちの資料の2ページにあります。この言葉が果たして真実なのかというところです。これは韓国政府の公式的な見解なのです。これは今も変わっていません。政府はこの見解をもってして全ての地雷の問題に対して話をしている訳です。つまり、「韓国には対人地雷による被害者は存在していません。韓国は民間人の被災者が出ないよう徹底的に対人地雷を管理している典型的な事例に該当するほどであります。また、韓国は北朝鮮と対峙している155マイルの非武装地帯以外のどんな地域にも対人地雷を埋設しておりません。その上、非武装地帯は徹底的に統制されており、軍は埋設地図を保有しています。地雷原は、24時間ずっと徹底的に監視されているため民間人の接近が完全に遮られています。したがって、アンゴラ、カンボジアなどの地域で発生している事故と同じようなことが韓国において起きた例は決してないし、またこれからも起きないはずであります。・・・」要するに、今私達が調べているような地雷は絶対無いと言っているのです。韓国では地雷は非武装地帯だけにあり、民間人の被災者は絶対いないという嘘を堂々とついている訳です。このように韓国政府は韓国には地雷問題は無いと言っています。アメリカも同じ主張をしています。


 さて、実際には後方の地雷原がどういう風になっているかということを説明させていただきます。韓国には36地域41カ所に後方地雷原があります。このことは韓国の一般の人は皆知っています。私たちはJCBLと一緒にこの後方地雷原をしっかり調べて世界に対してその報告をしようとしています。これから国際社会に韓国政府が嘘をついていることを知らせ、韓国政府がこの事実を認めて早く除去する事を、そしてこのことに関係する国々が責任をとることを訴えたくて調査に乗りだして、ほぼ6ヶ月で大体の調査を終え、今これを報告しようと考えています。9月にはニカラグアでオタワ条約の会議に出席して色々な国の方々にお知らせするつもりです。調査の結果から分かったことを申し上げますと、36地域のうち15カ所は元アメリカ軍の基地でした。当然これらの地域の地雷はアメリカ軍が埋設したものです。アメリカ軍は1975年に大幅な基地縮小で撤退をする時、埋設地雷をそのままにして帰ってしまったのです。その時アメリカ軍は韓国政府に地雷地図も埋設数の資料も渡しませんでした。そんな訳で韓国政府はその土地を管理はしていますが、どこにどれくらいの数の地雷が埋まっているのかを分かっていません。これは非常に大きな問題です。残りの21地域は韓国政府が地雷を埋設し、管理しているのですが、いつ埋設したのかが問題です。大体の地雷原が1986年と1988年のアジア大会とオリンピックの直前に埋められた地雷のものです。なぜ埋設したかと言いますと、北朝鮮からの攻撃の可能性があるからというものでした。お分かりのように地雷を埋設したのはそんなに昔の事では無いのです。地雷原の調査で分かったもう一つの事は、2002年6月に日韓が共同開催するワールドカップで使用される6カ所の競技場の所在都市にも地雷原があるという事です。最もひどい例では競技場のすぐ後ろの山に地雷原があるのです。しかもその地雷が雨などで流出する可能性があるのです。私たちはこれらの問題に対して何とか取り組んで行かなければならないのです。また、来年釜山でアジア大会があるのですが選手村として使われる町の後ろにも地雷原があるので、アジア各地からいらっしゃる選手やお客さん達が地雷原のすぐ隣でお泊まりになるということは恐いものがあります。私たちは政府に早急に地雷除去を訴える必要があると考えています。


 地雷の事故と被害者の問題ですが、政府は地雷の管理はしっかりしていると言っていますが、後で李時雨さんからご説明しますように本当に色々な事故があります。一番深刻なのが雨による流出です。1998年には梅雨時に237トンもの武器が武器庫から流出しています。それらは湖や川に流れ出している場合が多くて地雷もその中に含まれています。237トンなどという数字を皆さん考えられますか。これが新聞に堂々と載るのです。昨年韓国では19人が地雷の被災者になっています。内13人が軍人で一人は死亡しています。大佐も二人います。民間人は6人で、3人は地雷原とは全く関係ないところで、洪華郡席毛島という観光客の多く来る島の海岸で三回も事故があって、内二人は足を切断しなければならなかったのです。原因となった地雷は約200キロメートルから300キロメートル離れた場所から流出したものと考えられています。そこは地形的に流出した地雷が溜まりやすい場所だったのです。これが有情さんのように全然地雷原でない所での事故が起こる所以だと考えられています。私たちの調査では36地域の内9地域で地雷の事故があって人がけがをしていることが分かりました。地雷を管理している部隊の軍人は事故は全くないし、民間人が事故に遭ったことも勿論無いと言うのですが、住民の人に聞くと確かに9地域で地雷による事故が起きていると確認できるのです。実際にはもっと多くの被害があると思います。別の例を申し上げますと金浦国際空港から3〜4キロメートルの所にある金浦市庁舎の近くに地雷原がありまして、約300個位のM14が埋められていたのですが、1984年にその内230個位が土砂崩れで流出し爆発しました。その時13人の負傷者が出ました。この事実は隠されていましたが、私たちが最高裁判所の判決記録を調べたところ国の賠償責任が記載されていました。このように色々な地雷による事故が起こっているのです。会場に展示してある写真パネルに写っている地雷被災者のおばさんの場合、20年位前に孫が地雷の爆発で死亡しています。一家族で二人が被害に遭ったということです。中には家族六人の内四人が地雷の事故に遭って二人は死亡した報告例もあります。一番事故が多いのは楊口郡亥安面という最前線の民間人統制区域内の村なのですが、1500名の住民の内55人が地雷の事故に遭っています。
 こういう被災者の方達にどうして被害補償が出来ないかを少しだけ触れておきたいと思います。韓国では地雷事故に対する特別な補償法などは無いのです。ですから、国家賠償法に則って補償を求めるしかありません。しかし、手順としてまず始めに事故のあった地区の管轄軍師団に補償を求めなければなりません。訴えが起こされると師団内の委員会が補償の範囲を決めるわけです。委員会は当然の事ながら師団長の下にあります。もし、委員会が管轄軍に責任があると認めると責任を取って辞めたりしなければならないのは上司の師団長なのです。軍隊組織の中で、自分の上司の責任を追求することは出来ません。ですから、ほとんどの場合色々な理由をつけて逃げてしまい「賠償出来ません。」となる訳です。それから後に裁判を起こすわけですが、裁判をすると色々な問題が出てくるのです。特に韓国では超法規的力を持っている軍と闘うことはとても難しいのです。ですから、弁護士も軍の関わる訴訟は受けようとしません。もっと難しいのは被害に遭った人が国の非を立証する責任がある事です。裁判官は写真を持っているかとか、確実な証拠を持っているかとか、場所特定が出来るかとか色々言うのです。大体の場合、被害に遭った人はすぐに病院に運ばれて何ヶ月も入院して、治療代の支払いとか職場の事とか色々な問題を抱えて訴訟の事などすぐには考えないのです。軍側はその間色々な事を調べて論理的に説明できるような書類を作るのです。一方被災者は写真も何もありません。退院してから現場に行って写真を撮ろうとしても痕跡は無くなってしまっていますし、科学的証拠と言っても何もありません。残っているのは病院の記録だけですが、記録には「地雷による負傷」とは書かれていません。このように、国を訴えるのは非常に難しいのです。


 最悪の事例をお話ししますと、亥安面在住の白春玉さんというおばさんの場合です。現場はソウルから8時間くらいかかる山の中ですが、私たちが現場に行って調査をして写真も撮ってきました。このおばさんが夏に畑仕事をしていて昼ご飯を食べてから、川に行って足を洗おうとした時、流出地雷を踏んだのです。この時被災したおばさんを病院に運んだのは軍です。軍の基地の近くだったからですが、地雷を踏んだ場所は明らかに民間人立ち入り禁止区域の中ではありませんでした。ところが軍はこのおばさんが地雷を踏んだのは地雷原の中だと言うのです。証拠として地雷原の標識の写った写真などを提出する訳です。こんな調子ですから裁判で闘う事が出来ないのです。弁護士も困ってしまう訳です。これが韓国の地雷問題の現状なのです。


 地雷除去に対して私たちがこのように活動し、国際的にも色々批判がある中、韓国外務省に「どうしてこんな(地雷問題は韓国内に存在しないという)嘘をつくのか。」と問いますと「国防部がそういう資料を出しているからだ。」と答えます。彼らは国防部の資料をそのまま国際会議や国連会議で読み上げたに過ぎないと言う訳です。国防部はその見解の発表時の国際的状況、政府の立場、アメリカの立場を考えて発表しているのですが、韓国の国民は皆軍隊の経験がありますから地雷問題が現に存在していることは承知しています。政府も地雷問題が無いと言い通す事は出来ませんので2001年2月13日、ついに韓国軍の合同参謀本部は2006年までの5年間に、私たちが調査した後方地域にある地雷は全て除去すると宣言しました。ですが、これはなかなか困難な事の様です。今年まず5カ所の地域で地雷除去を実施するというので、私が関係者にどうして2006年までも時間がかかるのかと尋ねますと、元米軍が埋めた後方地雷原については地雷地図が無いし数も分かっていないので、当分この地域の除去が出来ないからだという事でした。韓国軍が埋めた地域についても地雷地図がありその数も分かっているのですが、大体の場合最初に埋めた場所から移動してしまっている様です。流出したり、土砂崩れで移動したりしてどこに行ったのか分からないのです。例えば、ソウルの南方に「芸術の殿堂」と呼ばれている国立オペラ劇場があるのですが(皆さんも行かれたことがあると思います。私の家から10分位の所にあるのですが。)、その後ろに牛眠山があり、5分から10分位登ると地雷原があります。地雷標識があるのです。ここは既に地雷は全て除去されたと言われている場所なので、なぜまだ地雷原の標識があるのかを尋ねますと、まだ8個位いくら探しても見つからない地雷が残っているからだという事でした。地雷原の標識をはずして市民を中に入れると大変な事になるかも知れないのでずっとはずせないのです。つまり、完全な除去が出来ていないと言う事なのです。これが韓国の地雷除去の現状です。実際の所、韓国には完全な地雷除去のための充分な機械も技術も予算も無いのです。予算の事は別にしても、技術が無い事の証拠を説明しますと、南北朝鮮をつなぐ京儀線沿いに約2000個位の地雷がありました。私たちの質問に対して国防部が発表したところによると、その中にM14対人地雷が1007個、対戦車地雷が300個あったということです。これらを除去するために軍は急ぎドイツから大体100億ウオン(日本円で10億円)位の機械を買って貰ったのです。つまり、それまで韓国軍はM14対人地雷を除去できるような機械を持っていなかったという事なのです。しかも、京儀線沿線地域は平坦な場所で非常に除去し易い所なのです。こんな場所でも新しい機械を100億ウオンも買って貰い、大勢の軍人が6ヶ月もかかって除去したのです。一方、今まで私が説明しましたような地雷原はほとんどが傾斜地であり、谷間の地域なので機械が入りません。それで手作業をするしかありません。今の若い兵士達は死んでも地雷原に入りたくないと言うので、上官達が困っているそうです。今まで申し上げてきたのが現在の韓国における地雷問題の実状です。


 最後になりますが、なぜアメリカ軍が韓国に対して埋設地雷を除去せず、地雷地図も渡さず、数さえも教えないのかという問題について申し上げます。私は、2001年3月にワシントンに行きまして国務省地雷対策班のシュナイダー大使と色々な話をしてきました。この人が言うには、韓国には「SOFA」という米軍駐屯地位協定があり、これによれば仮にアメリカ軍が韓国内に地雷を埋設したとしても、その全ての責任は今それらを管理している韓国にあるということです。しかし韓国以外では、例えばベトナムでは莫大な資金を投入し、人も送って地雷除去をしているとの事です。つまり、「SOFA」というものの存在が韓国の地雷除去の状況に障害を与えているという事です。これがアメリカとの関係であります。一応これで私の話を終わらせていただきたいと思います。

(JCBL運営委員 清水俊弘)

 趙先生ありがとうございました。少しずつ背景にあるものがはっきりしてきました。特にアメリカとの関係においての米軍駐屯地位協定の問題に関しては、私どもにとっての日米地位協定の中身がどうなっているのかという事を改めて考えさせられる内容でした。ここで、さらに具体的な状況を写真の説明をしていただきながら、韓国の特に基地周辺の地雷の管理状態、それからその周辺で人々がどのように暮らしているかを李時雨さんからお話いただきたいと思います。では趙先生引き続きまして通訳をお願いいたします。

(KCBL 李時雨) (通訳)KCBL 趙載國

 ありがとうございます。韓国で良く使用されている地雷にはM14という小型のものとM16という大型のものがあります。こちらがM16地雷で人を殺す目的の地雷です。この地雷は本体の大部分が地中に埋まっていまして、針が少しだけ外に出ている状態のため人に見つかり難いものです。


 これは、あるお爺さんが山菜取りのために山に入って地雷を踏んで亡くなった場所に行って発見した地雷の写真です。これは人を殺す目的の地雷ですから、事故のあった時に現場に行ってみますと被害者の皮膚などが飛んでしまって木の枝に引っかかっていたり、血が飛び散っている状況でした。国が死体を回収するのに三日くらい掛かりました。なぜかと言いますと周囲に同じ地雷があるという可能性があったので、地雷を探査しながらその場所へ進まなければならなかったからです。地雷は埋設するのは簡単ですが、いざ除去しようとしたり、事故があった時安全のため探査しようとするととても大変なのです。私は亡くなった方の魂を祀る意味で写真を撮りました。先ほど廻しましたものはM14の模型です。実際のものはそれより50グラム軽いものです。特殊なプラスチックの素材で出来ていて水にも浮きます。これは踏んだ人の足首を切断する地雷で多くの事故を起こしています。この基地の写真はJCBLの目加田さんが韓国にいらっしゃって撮った写真ですが本当は軍事機密の一部です。皆さん見なかったことにしてください。ここは、地雷被害の危険性を持った部隊の典型だと思います。こういう後方地域にある軍事地域に地雷原がなければならない理由は私には分かりません。後方地域の軍事戦略を立てているのは韓国政府と米軍です。この駐留米軍の戦略の中に50-2-7戦略というものがあります。50とは米軍の太平洋司令部を指します。2は朝鮮半島を指します。7は作戦番号です。この作戦によると、もし北朝鮮との戦争が実際に起こると、ここに前線が引かれて戦闘が交わされます。それ以外にもここを廻って相手の中心部を攻撃します。前線で戦う軍人は一般の人ですが、後方に侵入して戦うのは特殊部隊で特別な訓練を受けた人ばかりです。ですから特殊部隊が侵入出来ないように設置したのがこれらの地雷原です。ここでは2メートルから5メートル位の幅で鉄柵が引かれています。しかし特別な訓練を受けた人達は2メートル位の地雷原は簡単に越えられるので意味が無いものです。実際に戦争が起きたときにはこれらの地雷原は役に立たないという事です。しかし現にこの地雷原を管理している軍の軍人や、罪もない市民が被害を受けています。これが韓国における地雷問題で一番考えなければならない点です。どういう風に管理しているかをお話ししますと、毎日軍人達はフェンスの外から中を見ながら地雷が露出していないか確認します。しかし実際の所ほとんどの地雷原は雑草が多く、また小さな木も生えて来たりして地雷が始めに埋められたところにあるかどうかは確かめようも無いのです。特に冬に土が凍って春にこれが解けますと必ず地形が変わるのですが、その時フェンスがゆがんだり地雷が動いたりする事があるのです。洪水で土砂崩れになったりしたらフェンスも動いていってしまいます。こんな状態で地雷原をきちんと管理できる者は誰もいません。地雷の流出は普段でも起こっています。これらが日常的に市民の被害者が生まれている理由です。これが一般市民に地雷の危険を警告するための警告板です。ですが人々がこれを目にする範囲は流出した地雷を考えると既に危険地帯の内部なのです。この写真のように警告板承知で踏み入って行くのです。近くに車が止めてあるのが分かります。この写真は山沿いに住んでいる住民達が薬草や山菜を採りに地雷原に入っていこうとしているところです。韓国人にとって裏山は身近な存在で食物を得たり心の安逸を得たりするために良く登るのです。この人達はそこが地雷原と分かっていても生活のために踏み入っています。これが韓国の対人地雷被害の不幸な状況です。ありがとうございました。

(JCBL運営委員 清水俊弘)

 李さんありがとうございました。ここで5分間休憩を取った後、皆さんから質問等いただきながら続けて行きたいと思います。なお、韓国政府が責任を認めるまでは犠牲者自身が訴訟費用・治療費用を賄って闘っていかなければならない現実がありますので、これに対しまして私どもJCBLといたしましてもいくらかでもカンパが出来ればと思います。この休憩の間にカンパ袋を廻させていただきます。ぜひともご協力ください。またロビーには李さんの写真集や世界の地雷問題の状況が分かるランドマインモニターを販売していますのでお求め下さい。

(JCBL運営委員 清水俊弘)

 では、再開させていただきます。今流しておりますビデオは私どもが現地を調査したときのものです。ここに写っている地雷原は入っていくことを妨げるものは何も無いので幾らでも入って行ける訳です。地雷が目に見えませんので、実際に地雷の事故が起こってみないと分からない恐ろしさがあります。
ここで本日お話しいただきました趙さん達にご質問ないしご意見などがありましたら遠慮なく発言下さい。どんな基本的なことでも構わないと思います。今まで本当に情報が無かった事ですので、どうか遠慮なくお聞きいただければと思います。


{質問}
「名古屋から参りました中部地雷問題支援ネットワークの白井と申します。趙先生にお伺いしたいのですが、韓国でKCBLの活動をされていらっしゃる訳ですが、政府や軍そして右翼勢力からの圧力や嫌がらせやはありませんか。」


{答え}KCBL 趙載國
「この地雷問題に関しては、私たちはたくさんの韓国の上層部の人達に会ったり、元将軍の方々に会ったりもしますが、「本当に地雷は恐い。自分達の部下にもたくさん被害者がいる。」という様な反応で、人道的なところで同感を持っていただいているという印象です。韓国の将来を担う20歳から25歳の若者が地雷事故に遭って足を切断されるようなことになると、大抵の人は3年位は大変な精神的苦痛の中で生きて行く訳です。そういうことを知っている軍人の人達は地雷の怖さを知っているという感じがします。地雷を使わなければならないという事を理論的には言いますが、使っている人達がこれほどの危険性があることを感じているという事なのです。確かに今までに私たちのホームページには嫌がらせや、どうしてそんな事をするのだというような批判は来ましたが、むしろ地雷廃絶のために頑張っていてくれる事に感謝するとか、希望を感じるという様な励ましの方が多いのです。もう一つは、後方地域の地雷を除去する役割を持つ合同参謀本部の大佐や関係者達が私たちに対して色々な情報を提供してくれて協力的だということです。私達が地雷廃絶について発言すればするほど彼らの立場が良くなるということもあって、かなり私たちの運動の環境は良くなっているのです。ただ、一般の韓国国民は国際社会で韓国政府が嘘をついていることを知らないし、後方地域の地雷によってこんなに被害者が出ていることも知らない状況です。もう一つ付け加えますと私たちの運動がもっと広がったら嫌がらせを受ける可能性もあると思います。と言うのも私たちの関係者で、別の戦争における韓国の責任問題を追求している人がテロを受け、頭を撃たれ命に関わる状況に陥ったことがあるからです。そういう可能性はありますが、今のところは地雷問題に関してひどい攻撃はありません。」


{質問}
「三重県で小学校の教員をしています石井と申します。今日はお話を伺ってびっくりするような事ばかりなので、早速明日こども達に話をしようと思っています。基本的な事を伺うのですが、先ほど見せていただいた地雷の模型に韓国語が書かれていましたが韓国でも地雷が製造されているのでしょうか。」
{答え}KCBL 趙載國
「アメリカ製のM14をそのまま韓国内で韓国の会社が生産したものをKM14と言います。これはアメリカの会社の許可を得て韓国の会社が全く同じ製造方法で作ったものです。付け加えますとクレイ・モア地雷というものがあるのですが、これは非常な脅威になるものです。これを韓国やアメリカは地雷では無いとしていてオタワ条約には関係ないと言っているのです。韓国のハンワ・コーポレーションというところが(以前は韓国火薬株式会社と言いましてプラザホテルの会長の会社です。)クレイ・モア地雷のイミテーションを作ったためアメリカが怒ってなんやかや言ったこともあるのです。ですから韓国では地雷を生産していまして輸出した事もあるのです。しかし1997年にオタワ条約が成立したのを機に1998年に輸出のモラトリアムを宣言して輸出を停止しました。私達の調査では生産もストップしています。しかし、備蓄している地雷がすごく多いのです。埋められているものの2倍くらいあります。つまり幾らでも使えるということです。」


{質問}
石井「自分の子どもが地雷を踏んだ時のご家族のその時の思いを、生徒達がお聞きしたいと言っていたのですがお聞かせ願えるでしょうか。」
{答え}金義泰 (通訳)KCBL 趙載國
「子どもが地雷の事故に遭ったと電話を受けた時、信じたくないと言うか、信じられなかったです。子どもをある病院に運ぶと聞いたので、そこへ行ったが子どもの姿が無く、どうしたらいいのか分からないでいる所に、子どもが救急車で到着しました。救急救命室に子どもが入る時に「お父さん。」と言って泣いている姿を見てその場で倒れてしまいました。」


{質問}
「姫路から来ました佐野と申します。一番目に質問された方への回答で安心したのですが、私は35年位前に韓国に住んでいまして、その時の状況が悪かった(朴政権の時で学生運動がありました。)ことから考えると、韓国でこういう地雷禁止の様な話ができる事が本当に意外でした。まだ私は韓国内の自由という面においては当時のKCIAとの関連から心配していたのです。その点は趙先生の回答で安心したのですが、先ほどの被害者の方に対する国家賠償の話で、被害者本人に責任が7割あるというような数字の根拠がどこから来たのか、もう一つは政治的な問題はあるにせよ、アメリカが地雷を敷設したという事についてなぜ韓国政府がアメリカに対して責任問題を突きつけていないのかという点についてお聞きしたいと思います。」
{答え}KCBL 趙載國
「ありがとうございました。もちろん韓国の保守的な人達は、「地雷除去は北朝鮮にどうぞ侵略して下さいと言っているようなものだ。」と言います。しかし、今はそうした話が自由に出来るような状況にはなったと言えます。地雷廃絶運動が韓国で広がっていないのは、まだたくさんの人達が保守的な思考を持っていて「運動に参加してもいいのだろうか。」と考えているからだと時々感じます。まだ運動の盛り上がりには時間がかかると思います。二番目の点は、個人に70パーセントの責任があるという考えがどこから出てくるのかという事ですが、先ほどお話申しあげたように軍人達が自分たちの責任を逃れたいという所から来ています。韓国では出世競争は命懸けです。例えば自分の部下が地雷事故で死亡したなどとなると出世が出来ません。たとえ私財を売り払っても賠償金を払って公にしないのです。ですから私は韓国軍が発表している地雷事故よりずっと多くの事故が起きていると思っています。韓国の軍隊には60万人の兵士がいますが、毎年の事故による死亡者数は300人です。その中の多くが地雷事故だと思うのですが報道はされません。民間人の事故の場合には、まず軍はその場所で地雷の使用をしていないと主張します。使ってもいない地雷の事故の責任は取れないと言うわけです。もう一つの言い訳は、家の中での地雷事故の場合には当然家の人が責任を負うべきであり国は責任を取らないとするものです。先ほどのおばさんの例では100パーセントおばさんに責任があると国は言っているのですが、その村では1500人の住民の内55人が地雷の被害に遭っています。ここには昔は人は住んでいませんでした。北朝鮮軍が猛烈な防衛戦をしたところだったのです。結局韓国軍が奪い取り地雷を大量に敷設したのですが後にその一部を除去して人が住むようになったのです。このおばさんの場合、国が責任を全然取らないとする理由の一つはおばさんが地雷原の中に入って事故に遭ったからだというものです。もう一つの理由は、このおばさんが地雷原への侵入の常習犯だったという主張です。なぜ分かるかと言うと過去に地雷原に入って罰金を払ったことが二度記録されているからです。私たちは弁護士からそう聞いたものですから、おばさんを叱ったところ、他の村の人達は罰金3回、4回はざらだという訳です。それで他の村人に聞きますと、畑に行って一寸でも畑の外に出ると兵士が待ちかまえていて罰金となるのです。金額は1000円か2000円だそうです。それで言い争うのもいやなので後の煩雑さを考えて払ってしまうそうです。そうするとそれが記録に残るわけです。このことが私たちの現地調査で分かったのですが、裁判官や弁護士はだまされてしまいおばさんに不利になるのです。こんなような話はいくらもあります。次にアメリカの責任問題ですが、韓国政府とアメリカ政府は協調して国際社会に対して、韓国に地雷問題は存在しないとしているのです。オタワ条約でも韓国の事は例外の条項に入れようなどと画策していたのです。その過程で韓国内の地雷事故は存在しないとか民間人の被害者はいないとか言い出したのです。ですから韓国政府が突然アメリカ政府に地雷による事故がありますとか、被害者がいますとかは言い出せないのです。アメリカは自分たちの使用した地雷または自分たちの管理している地雷で民間人が被害を受けた場合には補償する、として国務省の中に地雷対策班を設置し、シュナイダー大使を置き、巨額の資金を用意しました。それでもって、ベトナム、カンボジア、アフリカの被災国で地雷除去や被災者支援をしています。でも、韓国には全く支援をしていません。さらに韓国政府のひどい点を申し上げると、韓国政府は国連の作った地雷除去や地雷被災者支援のための基金に毎年10万ドル位募金をしていますが自分の国の被害者には何もしていないのです。」


{答え}KCBL 李時雨 (通訳)KCBL 趙載國
「問題が二つあります。一つは休戦協定です。国連軍と北朝鮮軍との間で締結したのが1953年です。その休戦協定では非武装地帯の中にある全ての武器を除去するという内容があるのです。しかし今までそれは実行されていません。アメリカが、きちんと管理された非武装地帯の埋設地雷は北朝鮮の攻撃を防ぐために必要であると主張するのは、休戦協定の趣旨からするとおかしなものです。地雷を使用してはならないという休戦協定がありながら、ここで地雷を使うためにオタワ条約に加盟しないのはおかしな事です。二つ目はSOFAの問題です。これはアメリカ軍駐屯地位協定と言いますが、これによるとアメリカ軍が韓国に駐屯して色々な作戦を実行する場合、つまり武器の移動とか配置、再配置など全ての行動に関して韓国政府に報告の義務がありません。ですから地雷をそのまま放置して去っても良いし除去しても良いのです。もちろん地雷の埋設は自由です。こんな無茶な事がこの地位協定には書いてあるのです。ですから、アメリカ軍は韓国政府に地雷地図を渡す必要が有りませんし、韓国側もそれに対して何の異議も申し立てられません。今日のレジュメの略歴資料を見ていただくとアメリカと韓国にとって重要な歴史的出来事がある度に地雷が埋設された事が分かります。これは単に韓国だけの問題だけでなく、アメリカの東アジアにおける戦略の中で重要な出来事の度に地雷が埋められたと言えます。同様に沖縄や横須賀の米軍の兵器が増強されるということが朝鮮半島での戦争の準備だったと考えられる訳です。韓国での地雷埋設はアメリカの東アジア戦略を表していると言えます。前アメリカ大統領のクリントンは地雷禁止条約の成立時に、今後はアメリカはアメリカが使用した地雷に対する責任を取るだろうと語った事があります。このアメリカの約束「2010年までに世界中の地雷を除去する−マインゼロプロジェクト」を実現しようとするなら、SOFAの条項が障害になります。ですから地雷の問題を解決しようとするなら韓国と日本がSOFAの内容を変えて行くことが大切な事だと思います。」
{質問}
「私は豊中で牧師をしています、朴昌喚と申します。今まで非武装地帯に地雷が埋められていることは当然の事のように考えて来ましたが、南のあちこちに地雷が埋められていることを初めて知りました。こういった情報を国会議員その他の人達が調査されたと思いますが、先ほどのお話を聞きますと軍人や政府の役人もKCBLとその活動に好意的なように聞こえましたが本当のところはどうでしょうか。それからもう一つは、先ほどのお父さんのお話で娘さんが家の中で地雷を踏んだと初めてお聞きしたのですが、家の中で地雷を踏むとはどういうことなのかを説明して下さい。」
{答え}KCBL 趙載國
 「後方地域にこれだけたくさんの地雷があるということがどうして分かったかと言いますと、韓国では男は皆軍隊に行きます。私たちも行ったのですが、後方地域はほとんど空軍がカバーしています。少ない空軍兵力ですが、空軍に勤務する場合は山上に設けられた対空防衛基地に配属されます。そこで基地周辺に地雷が埋設されていることを見てくる訳です。それで、この事実に鑑み国会議員を通して国防部にどれくらいの地雷がそこに埋められているかを照会しますと答えが返って来るという訳です。私たちは色々な情報から後方地域の地雷原が39カ所あると考え、一カ所ずつ調査に行ったのです。この調査にJCBLが資金援助をしてくれたのです。また、韓国社会福祉共同募金会からも資金援助をして貰いました。私たちは二班に分かれて6ヶ月かけて詳細に調査しました。その結果を本日発表した訳です。
 先ほど申し上げましたように2001年2月13日に韓国国防部あるいは合同参謀本部がこれら後方地域の埋設地雷は除去すると宣言をしました。ただし、それについては困難を伴うので2006年までかかると言う訳です。もっと早く出来ないのはなぜかと私たちが尋ねますと、M14の除去の技術、道具、資金が無いからだと答えます。担当者は、国務省からは各方面からの批判もあるので早急に除去するように言われていると言っています。私が国会の国防委員会委員長に話を聞いてみますと、多くの国際的な批判があるので後方地域の地雷除去をしたいのだが、M14地雷の探知・除去に関しては不可能だという専門家の話があり困っているのだそうです。性急に除去に取りかかると除去要員の若い兵士に被災者が出ることが目に見えているので手をこまねいている状況だとの事です。もし、民間の地雷除去専門会社でM14の除去が可能ならそこに委託したいとも言っていました。今のところ韓国にはそういう会社がありませんので外国の会社と提携してでも、この地雷除去をやってくれても良いと政府は考えている様です。ですがこういう会社はまだ出来ていませんので、当面は莫大な時間と危険の伴う兵士の手作業に頼らざるを得ないのです。
 何にしても2月13日の後方地域地雷の除去宣言は韓国にとっては大きな進歩だと言えます。もう一つ申し上げますと、韓国には約100カ所のアメリカ軍基地がまだ残っています。これらの基地はミサイル基地などでアメリカにとって大変重要度の高い基地なのです。ということは、これらの基地周辺にはもっと多くの地雷が埋められている可能性が高いのです。こういう基地は山深い場所に立地していて一般住民は存在さえ分かりません。韓国の国会議員がアメリカ軍に質問しても回答は得られませんし、私たちにも今は分かりません。ですが将来行う予定の第二次調査ではこれらアメリカ軍基地も対象にしたいと考えています。これを実現するためにアメリカの専門家の人達に協力を求めるつもりです。本当に困難な作業になるかと思いますがなんとか実施したいと考えています。


 次に、有情さんの家の中に地雷があったとはどういうことかという質問ですが、事件後テレビにも出ましたが警察、憲兵、検察等が色々な調査をしたのです。家族の一人がどこからか地雷を持ち込んだのではないか疑ったり、子どもが拾って遊んでいたのではないかとか、家を建てるときに地雷が床に入ったのではないか等々色々な可能性について詳細に調べられたのですが、結果として、いずれの調査機関も確たる答えを得ることは出来ませんでした。事故に対する責任割合に影響しますので国側は徹底的に(子どもまで尋問したりして)調査したのです。それでも原因は突き止められませんでした。関連して他の地雷事故の事例を紹介いたします。漣川郡というソウルから一時間くらいの田園地帯で多くの農民が地雷の被害に遭っています。非武装地帯から流れて来ている川によって地雷が運ばれて来たと考えられます。大馬里という地雷原の村ではベトナム戦争に従軍した元兵士達で貧しい者を開拓のため住まわせたのですが、30人位の人が地雷被害に遭ったのです。今でも被害者のための慰霊塔が立っています。ここの小学校では地雷被害に遭わないように、土を運んできて2メートルも盛り土して運動場として使っています。隣の村への道路沿いにある地雷原の表示も鉄の線と三角形の標識だけで管理は充分ではありません。」

(JCBL運営委員 清水俊弘)

 ありがとうございました。これからの私どもの考えている運動についてお話しします。2002年に日韓共催によるワールドカップが開催されます。韓国側の開催予定地が決まっておりますが、近くに地雷原のあるところが何カ所かあります。その地域を含めワールドカップの始まるまでに出来るだけ速やかに地雷除去作業を終えるように日韓共同アピールを来年1月中旬位を目途に準備したいと考えています。それに関連して実際の地雷除去作業が一歩ずつ着実に実施出来るよう、具体的な方法について世界のNGOネットワークを駆使して考えて行きたいと思っています。


この後、被災者支援のカンパの披露と贈呈が行われた。

(JCBL運営委員 清水俊弘)

 今日、このお話を聞かれた方々が出来るだけ多くの人にお話を伝えていただくようお願いします。その場合必要な資料がございましたら遠慮なくJCBLの事務局にご請求下さい。それでは最後に本日の開催にご尽力いただきました大阪新生教会の武内牧師様よりご挨拶いただきます。

(大阪新生教会 武内牧師)

 大阪新生教会の武内と申します。最初にこの会のお話を聞いた時には実感が持てませんでした。ただ、私が今大阪キリスト教連合会のお世話をしていますので、そのネットワークで多くの方にこの会の開催をお知らせできるということでお力添え出来たらと思います。私自身、こういう地雷問題がごく身近にあるという事を知ることが出来まして参加して良かったと思っています。
 私が国際問題にはじめて目覚めたのは朝鮮戦争の時でした。北朝鮮軍が虐殺行為をしたという壁新聞を小学校4〜5年生位の時に学校で見ました。そういう問題が韓国でいまだに尾を引いているという現実を改めて見まして問題の根深さを感じました。
 また、日本における部落差別の問題、エイズの問題、水俣の問題、沖縄問題なども私たちが真実を明らかにして行かなければならない問題だと思います。韓国では地雷問題に関して教会が支援をしていると伺っていますが、どのように行われているか後ほど個人的に伺ってみたいと思います。韓国の人達とは今までも親しくさせていただいています。韓国の地雷問題を他人事でなく身近な問題として今後取り組んで行きたいと思います。
 本日は名古屋、三重、そして韓国からも遠路はるばる、また大勢の方に集まっていただき本当にありがとうございました。一言お祈りさせていただきます。創造主の神様、貴方のお守りがどこにあってもあると思います。しかし、私たち人間の色々な傲慢さや罪によってお互いに戦い、人を傷つけ、そしてまたそれを自ら絶とうしようとしない傲慢さもあります。どうぞ真実が明らかになり、そしてまた信じる人達が救われるように教会がありますように、また心ある人達が共にそれに取り組んでいくようにお導きください。主にあって感謝します。アーメン。
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 基調講演「Wars End, Landmines Don't]---ルオン・ウン(Ms.Louug Ung)

  2000年9月28日(木)於 港区芝公園2-6-3 「abc会館ホール」
(ルオン・ウン)--ベトナム退役軍人アメリカ基金(VVAF)プログラム「地雷廃絶キャンペーン」スポークスパースン

 2000年9月28日(木)東京においてJCBL事務局、マクミラン ランゲージハウスの主催でクメール・ルージュの支配する過酷なカンボジアを生き延びたルオン・ウン氏の出版記念講演とカンボジアでの地雷廃絶運動についてのパネル・ディスカッションが行われた。ルオン・ウン氏の講演内容の詳細は以下のとおり。


 皆さんこんばんは。初めにスポンサーを引き受けていただいたマクミラン社とJCBLに感謝いたします。辛抱強くお待ちいただいたお礼に私の知っている三つの日本語を披露いたします。「こんにちは」「ありがとうございます」「すし」です。(拍手)


 今夜私は皆さんにカンボジアで起きた大量虐殺についてお話したいと思います。私がいかにその虐殺の時代を生き延びたか、そして次に内戦が終了した今なお多くの人々を殺し続けている地雷を廃絶する仕事に私が身を捧げるようになった次第をお話いたします。


 既にお聞き及びのとおり、私はカンボジアで生まれました。カンボジアに内戦が起こっていた事は、当時まだ物心ついて間もない頃だった私には全く記憶がありません。私が覚えているのは私がカンボジアを大変愛していたことです。豊かな自然、木々、大地をとても愛していました。当時カンボジアは非常に穏やかで平和な国でした。私はその中で幼少期を過ごしていました。初めは日本の子供達とほとんど変わらないものでした。フライにしたこおろぎのようなジャンクフードが大好きでしたし、兄弟姉妹で通りでボール遊びをしたり、いじめっ子から逃げ回ったりしていました。私は大変恵まれていました。私の家族は大家族で、カンフー映画や侍映画が大好きな三人の兄たちと優しい二人の姉たち、妹、そして愛情に溢れた両親がいました。でも私だけはよく両親からおてんばで男の子みたいだとか、のどが渇いて今にも死にそうな牛みたいにどたばた歩く子だと言われてしかられました。父は実業家であり憲兵隊の隊長でもありましたので、私の家族は何不自由のない生活を送っていました。かわいい衣類やおもちゃもあれば教育の機会も与えられていました。食べ物は好きなだけ食べることができましたし快適な住居もありました。でも私にとって最もうれしかったのは父が私のことをまるでお姫様のようにかわいがってくれたことでした。しかし、この幸せもクメール・ルージュの支配が始まる前まででした。


 1975年4月17日、私の人生はこの日を境に永久に変化しました。この日共産主義勢力のクメール・ルージュがカンボジア全土を支配したのでした。彼らは、何十台ものトラックの荷台に乗ってやってきました。サングラス、黒シャツ、黒ズボンという出で立ちでした。腰のベルトには手榴弾をつけ、背中には銃をかついでいました。彼らは私たちの家にも乗り込んで来ました。最初プノンペンの町の人たちは歓声を上げて彼らを迎えました。食べ物を与え、水も与えました。しかし、それはやがて恐怖に変わりました。クメール・ルージュの兵士達が空に向けて発砲し、市民に家を捨て町を出るように命令したのです。アメリカ軍が空爆を開始するから、空爆が終わるまでの三日分の衣類と食料だけを持って一時避難せよと言うのが説明でした。私はまだ5歳だったのですが、通りに溢れかえる二百万人のプノンペンの市民や外国人達を見てとても恐かったことを覚えています。町、人々、銃が恐かったのです。その日六人の入院患者が病院を追い出されるのも見ましたし、子供が親と引き離されてもう二度と会えないだろうと思える場面も見ました。この日からカンボジアは「囚われの身」になったのです。


 クメール・ルージュの目的は全く新しい社会-完全に農業の社会-を築く事でした。都市部に住んでいた人々は強制的に農村に移住させられ、毎日過酷な農作業を強いられ夜は寝るだけというまるでロボットのような生活を送ることになったのです。カンボジアは壁無き牢獄と化したのです。クメール・ルージュの新しい社会では近代的なものは全て悪と見なされました。西洋文明の影響を受けたものは全て-機械、時計、音楽、貨幣、資本主義等々-腐っているとして禁止されたのです。食料は配給制でわずかな量しか与えられませんでした。その結果多くの人が飢え死にしました。衣類は一ヶ月または二ヶ月に一度黒いシャツとズボンが与えられました。規則を破る-仏様を拝んだり、色彩のついた衣服を着た-者には厳しい処罰が科され、時には殺される事もありました。カンボジア人はクメール・ルージュの支配した四年間というものは黒い服しか着られなかったのです。それはあたかもカンボジアという国が滅亡し、カンボジアの文化が死に絶えた事をカンボジア人が四年間に渡って弔っていたようでもあります。監獄と化したカンボジアで私たちは受刑者でした。村はかつてのドイツの強制収容所でした。私たちにとって毎日が月曜日でした。休日、祝日、日曜日は全くありませんでした。毎日12時間から16時間の労働が四年間休み無く続きました。カンボジアは今までの全ての蓄積を失いゼロからの出発を余儀なくされたのです。クメール・ルージュは貧しい人々や農民に権力を与えました。彼らこそ資本主義に毒されていない-金銭や欲得や西洋の影響を受けていない-人々と考えたからです。一方都市部に住むエンジニアや政治家や兵士達をカンボジアに対する裏切り者と考え、その多くを殺しました。クメール・ルージュはエリート層の人々を殺しても、まだ自分たちの周りに裏切り者がいると猜疑心に駆られ、ますます殺戮を広めていきました。医師、学生、中国系住民、日本系住民、自分たちと違う言葉を使う人々を殺し、ついには自分たちが殺した人々の子供達までも殺していったのです。残虐なクメール・ルージュの支配した3年8ヶ月と21日の間に、当時七百万人だったカンボジア人の内の二百万人が飢えと病気と処刑によって命を失いました。


 私たちの家族は初めから、私たちがとても危険な状況にある事を知っていました。それというのも父の地位(旧政権下の商人でありまた憲兵隊隊長でもあった)が彼らの抹殺の標的になるものだったからです。私たちは生き延びるために名前を変え、身分を偽り、居場所を転々としました。私たちは絶えずクメール・ルージュの一歩前を行っていなければならなかったのです。しかしついに隠れおおせない時が来ました。ある日銃を持った黒服の二人のクメール・ルージュの兵士が父を連れにやってきました。彼らは父に言い訳のように「ちょっと来て貰いたい。牛に引かせていた荷車がわだちにはまって動けなくなったので手を貸して欲しい。」と言いました。父は全てを理解し母が泣く中で私を抱き締め、兄弟みんなに「母親を大事にしなさい。そしてお互いに助け合うんだよ。」と諭しました。それが最後の父の姿でした。その三日後、私は父が処刑されたと聞かされました。私はその時七歳半でしたが、最後に父が私を抱きしめてくれた腕の感触と、頬ずりしてくれた時の頬の感触、そして父の愛情をはっきり覚えています。生涯忘れ得ぬ思い出です。クメール・ルージュの兵士達も私のこの思い出は取り上げることは出来ませんでした。私は彼らを激しく憎みました。彼らを殺してやりたいと思いました。私は心底生き延びたいと願いました。生き延びて自分の手で彼らを殺してやるのだと思ったからです。結果としてこの怒りが私を支え、四年間の大量虐殺の時代を生き延びさせてくれたのです。


 父が処刑された後、母は私たち兄弟・姉妹を集めこれからはお互いに別々に分かれて生活しないといけないと言いました。いずれクメール・ルージュが私たちも連れに来て殺すだろうと思ったからです。兄は東、私は北、姉は南と決められ、孤児の収容されている労働キャンプを見つけ、孤児だと言って生活させて貰い、二度と母の所には戻ってこないようにと言われました。私は母の元を離れたくありませんでした。母にそう言うと、母は私の肩を掴み後ろ向きにさせ背を押し、お尻もぶって「出ていけ。あんたみたいなやっかい者は要らない。」と言いました。私はひどく腹を立てて母を憎みました。母は意気地なしで私を全然愛してくれていないと怒って家を出ました。今では、私は当時の自分が間違っていたと分かっています。母は私を愛していたからこそ、あんな風に私を追い出し私の命を救ったのです。母は強く、勇気のある人でした。母は私に怒りを植え付けることによって生きる力を与えたのです。母は自分が愛情を示してしまえば私がまた母の元に帰ってしまうことを見抜いていたのでした。


 数ヶ月後、クメール・ルージュの兵士が母と一緒にいた五歳の妹を連れに来たことによって、私は本当の「孤児」になりました。当時私は八歳でした。私は全くひとりぼっちでした。自分で自分の食べ物を探さなければならなかったし、自分の身を守らねばなりませんでした。家族は周りに誰もおらず全く孤独でした。戦時下とあって人々は互いに不信感を持ち、話し合うこともせず、友情も笑いもありませんでした。あるのは「憎しみ」だけでした。私はその憎しみを自分の内にしまい込んでいました。クメール・ルージュは私のその「憎悪」を見透かし、兵士としてものになると考え銃を与え少女兵士として人殺しの訓練をほどこしました。彼らはこのようにして多くの子供兵士を育てたのです。当時私は九歳でした。私は世の中全てを呪っていました。私の憎しみは全てに向けられていました。私は神を憎み、私を助けようとしない人々を憎みました。多くの人々が飢えで死んでいくのを見て私の憎悪は一層つのりました。自分の腹が飢えで風船のように膨らむのを見たり、手の皮膚が指で押すとすぐに元に戻らなかったりするのを見る時にも憎しみが増幅しました。


 私はクメール・ルージュの時代に両親を失い、姉妹二人と親戚二十人も失いました。親友も死にました。ある友人は防空壕の中で爆撃の破片で脳漿を吹き飛ばされました。私は肩に降りかかったその脳漿を払い落として生き延びるために必死で逃げました。九歳の時クメール・ルージュ兵士を住民が公開処刑するのを見ましたが、住民にナイフで突き刺さされた兵士の血が近くで見ていた私に降り注ぎました。
1979年にベトナム軍がカンボジアに侵攻し、クメール・ルージュの内戦時代が終結しました。奇跡的に生き残った私たち兄弟五人は一緒に生活することになりました。私たちはカンボジアを出た方が良いと考えていました。当時カンボジアを出る手段は二通りだけで、陸路か海路でした。海路を選択するとタイの難民キャンプまでの船賃が必要でしたが、当時の私たちには五人全員の船賃は用意出来ませんでした。一方陸路を取ると幾多の地雷原を越えて行かねばなりませんでした。クメール・ルージュの時代、カンボジア人はこれらの地雷原によって囚われ人になっていたのでした。タイまでに六つの地雷原を越えていく危険を犯すことは出来ませんでした。結局海路を選択したのですが、一番上の兄と私だけが行くことになり、残りの三人はカンボジアで身を隠す事にしました。私たちはその時本当にタイまでたどり着けるか、また兄弟が再び会えるか分かりませんでした。幸い私たち二人は無事タイの難民キャンプに入ることが出来、最終的にアメリカに生活の場を得ることが出来ました。


 いまだに政治が世界中で戦争を継続させています。私はアメリカで暮らした16年間というもの戦争の恐怖を忘れることが出来ました。1995年にカンボジアに帰った私は、カンボジアの人々がいまだに地雷の被害を受け続けていることを見てショックを受けました。そのことを知ったとき私は大変悲しく、また怒りも覚えました。私はアメリカに移り住んで生活も安定し、教育を受けることも出来ました。私のカンボジアで受けた深い心の傷はやっと癒えようとしていましたが、カンボジアではその間にも四万人の人々が地雷の被害に遭っていたのです。カンボジアの地はいまだに安全ではないのです。カンボジアでは毎月五十人から百人の地雷被害者が生まれています。世界中では年間二万六千人の人々が地雷被害に遭っています。こんな小さな兵器-対人地雷-は一個作るのに五十円位しか、掛かりません。いくら高くても三百円までです。一方犠牲者の数は、化学兵器、生物学兵器、核兵器による犠牲者よりずっと多いのです。しかし、世界ではこのことはニュースになりません。皆さんも地雷の事についてあまりご存じではないのです。他の大量破壊兵器と同様この小さな地雷という兵器は何十年も効力を持ち続けるのです。今世界の七十カ国に八千万個から九千万個の地雷が効力を保って埋められています。地雷はまさに大量破壊兵器なのです。ただし、スローモーションの大量破壊兵器です。


 もっともっとお話ししたい事があるのですが、時間が無くなってきましたので、地雷の子供に対する被害という点に絞ってお話しいたします。私がカンボジアの内戦の時代を生き延びたのは大変な幸運だったと思っています。私はどこで地雷を踏んで足を失っても不思議ではなかったのです。子供にとって地雷を踏むと言うことは、一生に何度も何度も苦しみ続けなければならない事を意味するのです。大人の地雷被害者のうち五割は生き延びることができます。彼らは義足によって新たな人生に踏み出すことができます。しかし、子供の場合は骨の成長のスピードにもよるのですが、六ヶ月または八ヶ月毎あるいは一年毎に成長してきた骨が肉を食い破ってこないように切断し続けなければならないのです。勿論、骨の成長が止まれば手術は不要になりますがそれまでは手術の連続なのです。世界の大部分の国に置いてはここ東京のような医療を受けることはできません。医薬品も不足していますし、病院も少ないのです。子供の地雷被害者は痛みを伴うこの手術を受ける事を延ばしがちです。その間に傷口が細菌感染を起こして患部よりずっと上の方で切断せざるを得ないようなことにもなります。そうすると、義手や義足の装着や後の訓練に支障をきたすようになり、社会復帰がますます困難になるのです。


 私は生き残ったことを本当に幸運だと思っています。それ故、私の人生を地雷廃絶運動に捧げています。人々を救い、人々の生活を変えるにはそれほど多くの努力は必要としません。わずか150ドルで農民に農作業で傷んだ義足を作り直してあげることができます。50ドルで子供が学校に通うことが出来るようになります。20ドルあれば母親が幼い子供を抱えて職に就くことができます。このようにほんの少しの努力で人々の生活を大きく変えることが出来るのです。地雷によって手足を失ったり、命を失ったりする地雷被害者の九割は農民や子供や母親と言った民間人(非戦闘員)なのです。世界中で地雷による意味のない殺戮が続いているのです。皆さんがこの問題に関わっていただく事が非常に重要です。例えば私のこの本を買っていただきますと収益の20%がJCBLに寄付されます。地雷問題は解決可能な問題なのです。ですからどうぞ皆さんこれに関心を持って参加してください。戦争の犠牲者と呼ばれる人たちに、平和な時代の中で第二のチャンスを与えてあげてください。彼らは戦争を生き延びましたが、今彼らには平和の中で生き延びるという課題が与えられています。どうか皆さん彼らに手を差しのべてください。皆さんにご来場いただき熱心に私のお話をお聞きいただいたことを感謝申し上げます。ご質問には後ほどお答えする機会があろうかと思いますが、ここで講演を終了させていただきます。最後に私の大好きな日本語をお送りします。「酒」、「すし」です。(拍手)
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JCBL沖縄シンポジウムー九州・沖縄から世界に問うー米国は「対人地雷全面禁止条約」の早期批准を!に参加して

2000年7月15日(土)18:00〜20:30



 7月14日(金)午後10時過ぎに妻と共に降り立った那覇空港は閑散としていた。サミット直前とあって、ポスター類が目につく。宿泊先の宜野湾研修センターへ向かうタクシーの中で運転手さんと日米安保問題、基地問題、そしてサミットが話題になる。いかにも沖縄という感じだ。政治に無関心では暮らしていけない現実が沖縄にはあると実感した。翌15日朝食後北川JCBL代表と連絡が取れ、午後5時30分沖縄キリスト教短期大学で落ち合う約束となった。地元の新聞にチャンナレットさんと北川代表の記事が載っていたので、関心を持っていただける市民の方もいらっしゃるだろうと一安心。しかし、新聞の扱いは「基地反対集会」の方が遙かに大きい。当たり前と言えば当たり前である。嘉手納米軍基地を人の輪で包囲しようという催しの全面広告も地元の熱意を感じさせるものだ。


 約束の時間にキリスト教短期大学の構内に到着すると、すでに準備はほとんど終わっていた。北川代表から原先生、佐久川先生に紹介され、講演会場のチャペルに入った。目加田さん、松本さん、清水さんの見知った顔を見つけ挨拶。チャンナレットさんと通訳係りの堀内さんにも自己紹介した。チャンナレットさんは気さくで、明るく、良く気のつくタイプの人とすぐに分かった。準備のお手伝いを妻共々少ししていたところ、北川代表から議事録を取るようにとの指示があり、一瞬緊張した。テープレコーダーも持ってきたことだしと思い直して最前列に席を確保した。冷房が良く効いている。


 定刻を少し遅れて開始したシンポジウムにはざっと80名位の参加者があった。同じ宜野湾市内で大規模な基地反対集会が同時間に開催されている事を考えれば、ありがたい参加者数だと思われた。清水運営委員の概況説明から始まったシンポジウムの議事録詳細は「催し物案内」を見ていただくととして、印象に残ったことをいくつか述べたい。


 レットさんの車椅子操作の見事さ。勿論体力の問題もあるとは思うが段差を全く意に介さない車椅子の操作は見事というしかない。多分、軽くて重心の移動が自由な三輪車椅子の特性に負うところも大だと思った。もう一つ、レットさんの英語のこと。確かになまりが強くて聞き取りづらいが、実に堂々としている。場慣れしていると言えばそれまでだが、完璧なネイティーブの発音とイントネーションをいつも目標としている日本人に、別の可能性を見せてくれているようだった。レットさんの話の内容についても一言言わない訳にはいかない。彼自身が何度も自殺を考え、実行した経験のあることから、地雷被害者とその家族、地域社会のうける痛みが手に取るように分かる話だった。「彼らにも希望が必要なのだ。」という言葉が今も耳に残っている。


 沖縄に於ける歴史教育と憲法教育の比重についても考えさせられた。原先生、佐久川先生という沖縄の代表的な教育者だからかも知れないが、沖縄県民の歴史認識と憲法に基づく厳しい指摘(平和的生存権が沖縄県民にはいまだに無い)には、はっとさせられるものがあった。


 シンポジウムが終わってからレットさんが北川代表に、それぞれのメンバーの役割が必ずしも明確でなく、準備や撤収に戸惑いがあったのは今後の反省点だと述べていた事も印象的だった。いかにも物事を積極的に改善していこうとするレットさんの態度が良く出ていたと思う。
 シンポジウムの後の夕食会?は率直な意見の飛び交う友好的な機会だった。今回参加したメンバーめいめいの生き方・物の考え方がかいま見られて大変楽しかった。妻もすっかりうち解けて会話を楽しんでいるようで、そのこともうれしかった。普通の人が普通に地雷という無差別で許し難い兵器の根絶に協力しているという構図が確認できたような気がした。


 翌16日は那覇市の繁華街で街頭運動をした。クリントン米国大統領宛のハガキを通行人に呼びかけて出して貰おうという訳だ。このとき思ったのは沖縄の人の多くが(全員では無いにしても)自分の意思を持っているということだった。受け入れてくれる人、拒絶する人いずれにしても話を聞いて、YES, NOを言ってくれることが多かった。顕著だったのは、手渡したハガキが一枚もゴミになったのを見なかった事だった。これが東京や、大阪、名古屋ならどうだろうか、受け取るだけ受け取ってポイ捨てする人が必ず出るような気がする。偏見だとは言えない場面を何度も目撃しているのだ。ここでも、レットさんの活躍はめざましい物があった。炎天下のもと、道路に出て信号待ちの車の運転手にハガキをお願いしたり、信号待ちの無関心そうな通行人にもだれかれとなくハガキを手渡し、協力を呼びかける姿はバイタリティー溢れるもので大いに触発された。ハガキ送付がクリントン大統領の対人地雷禁止条約署名に直ちに結びつくとは考えにくいがボディーブローにはなると信じて疑わない。今後もこの活動は私的にも継続したいと考えている。


 街頭運動を終えて一行は「ひめゆりの塔」と「平和記念公園」を訪れた。分かっているつもりでも置いてある体験手記を読むと今更ながら戦争の悲惨さが伝わってきた。戦争というものはそれ自体が悲惨なのだという思いと、何とか戦争が起こらないようにしたいという気持ちが入り交じって複雑だった。二カ所を訪れた後、私たちは一行と別れて宿に向かい、翌日昼過ぎの飛行機でうだるような暑さの名古屋に戻った。 

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2000年7月15日(土)沖縄においてJCBL主催で地雷廃絶のシンポジウムが開催された。内容の詳細は以下のとおり。

地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)シンポジウム
九州・沖縄から世界に問う
〜米国は「対人地雷全面禁止条約」の早期批准を!〜


2000年7月15日(土)午後6時〜8時30分 沖縄キリスト教短期大学内チャペル

(開会に先立って)司会 JCBL運営委員 清水俊弘

 シンポジウムの趣旨の一つは、地雷問題を沖縄の方々とともに考える機会を持つこと。さらに、137カ国が署名し、99カ国が批准した「対人地雷全面禁止条約」の目指す、生産禁止、使用禁止、備蓄禁止、移動禁止を実現させるために、アメリカの条約参加を訴える機会とすることである。

(主催者代表挨拶)JCBL沖縄地域コーディネーター(前沖縄キリスト教短期大学学長) 原 喜美

 パネラー諸氏および参加者各位に深く感謝する。地雷廃絶キャンペーンの現況を知ることは平和を願う沖縄住民にとってまたとない機会である。「沖縄の戦略的重要性が増す」という前米国防次官補の発言は沖縄を植民地と見なす意識が根底にあり、沖縄住民の平和的生存権を踏みにじるものである。無差別の被害をもたらす地雷は人の悪意と憎しみの所産である。愛と慈しみにあふれた世の中に対人地雷は不要である。沖縄住民の主体的な行動が平和的生存権の実現に結びつくことを確信している。

(対人地雷問題の実状-スライドによる解説)JCBL運営委員 清水俊弘

 カンボジアにはベトナム戦争以来、多くの戦闘行為を経る中で多数の対人地雷が埋められた。その結果非常に多くの住民が地雷被害を受けることになった。残された地雷は多種にわたり、被害は悲惨を極めている。病院に運び込まれるまでに死亡するケースも多い。助かっても四肢の切断により、本人も家族そして地域も経済的、精神的に大変苦しい生活を余儀なくされる。地雷除去の作業は困難を極める。地雷回避教育、リハビリにも力が入れられているが十分ではない。地雷による被害が無くなることを願ってやまない。

(基調講演)ICBL国際親善大使 トゥン・チャンナレット

 この機会に私の地雷被害についてお話しできることを感謝したい。今晩は私自身の体験談とカンボジア国民の味わった苦しみおよびカンボジアの抱えている問題についても一緒にお話ししたい。
 私は1960年バッタンバンに生まれた。1963年から1975年の間、家族は地方での暮らしが苦しくなり大都市に職を求める父と共にプノンペンに住んだ。1970年3月に内戦が勃発し1975年までにアメリカ軍によって大量の武器が持ち込まれた。1975年にクメール・ルージュがプノンペンを占領しプノンペンの住民を田舎に追いやった。その後、5年間のクメール・ルージュ政権下に350万人もの国民、特に知識人(大学教授、学校の先生、シスター、牧師等)が殺された。クメール・ルージュの後押しをしたのが中国で、彼らも大量の武器をカンボジアに持ち込みカンボジアの破壊と殺戮をもたらした。私たち家族は、プノンペンに生活しているとき、一時的に (1963年から1973年)シスターの修道会に身を寄せていた。しかし、1975年にプノンペンを占領したクメール・ルージュは全ての教会を破壊しキリスト教徒を殺戮した。1977年に父と妹もクメール・ルージュによって殺された。1979年1月ベトナム軍がポル・ポトの圧制からカンボジア人を救うという名目で乗り込んできたが、カンボジア国民の期待に反し、彼らもまた新たな共産主義を押しつけた。彼らはアメリカや中国、ロシア同様カンボジアの文化と国土を破壊した。当時多くのカンボジア人は生活に困窮していた。私たちも同様で、タイ・カンボジア国境で国連やNGOが食料援助をしていると聞いて、2万人のカンボジア人の一員として国境に向かった。しかし、そこでは女性と子供にしか食料は与えられず、男達と少年達は兵士になって食料を得ることを強要された。私もやむを得ず1979年4月16日に兵士(ソン・サン派、仏教自由民主党の)になった。当時カンボジアはカンボジアに支援されたヘンサムリン政権と3つの反政府勢力の4つの勢力に分かれて内紛中で大変危険な状況だった。そんな中、私は1981年に結婚した。
 1982年12月18日ベトナム軍との戦闘中に私は地雷を踏んでしまった。意識を保っていた私は地雷原の中で自分の足が二度と使えないことを知り、私には希望が無いと思った。歩くことも走ることも仕事をすることも出来ない身体では幸せを得ることは出来ないと思ったのだった。私は絶望し自殺する事を考え始めた。私は地雷原の中で2回も自殺を試みた。同僚の兵士達は私の自殺を止め30キロも離れた病院に運んでくれた。病院で治療を受けた後にも、私は何度も自殺しようとしたが医師や看護婦達に止められた。当時私以外にも病院には地雷の被害者があふれていた。6ヶ月後、私は手術とその後のリハビリも済ませ、妊娠中の妻の待つ難民キャンプに戻った。そのころの私には家族の事、周りの人の事、他の地雷被害者の事を思いやる余裕が無かった。私にとって最良の事は死ぬことだと思い込んでいたのだ。二人目の子供が産まれ、その子が3才になって「お父さん、何か甘い物を買いたいからお小遣いをちょうだい。」と言われ、自分が無一文だと気づいた時に、突然自分が妻と二人の子供達を養っていくためにはどうしたらよいのだろうと考えるようになった。「生きよう。」と思うようになったのだった。これは私にとって一大転機だった。当時何千人もの兵士の地雷被害者にはそれぞれ7〜8人の子供があり、非常に苦しい生活を強いられていた。国連は1ヶ月20キロの米を援助してくれていたがそれでは不十分だった。私のいた難民キャンプは18万人が4平方キロメートルに収容されているもので、劣悪な状況だった。生きる目的を持った私は将来家族を養えるようにとキャンプ内の身体障害者訓練校で、1985年から1993年の間に、ラジオの修理、熔接の技術、タイプライターの修理の技術を学んだ。30万人の難民のカンボジアへの帰還が1992年に始まった。身体障害者の家族はしんがりで、1993年、私は家族と共に帰国した。自分の身につけた技術に自信を持っていた私は、良い仕事を見つけられると思っていたが待っていたのは失望だった。帰国してみると国には身体障害者、夫を失った女性、孤児、貧しい人々があふれ、国連の職員に物乞いをしている姿があちらこちらに見られ、子供達はゴミ箱をあさっていた。当時ほとんどのカンボジア人は私のような障害者が社会に貢献できるとは考えていなかった。幸運なことに難民キャンプの職業訓練校でかつて面倒をみてくれた神父やシスターが、私の願いに答えて車椅子製造の仕事を提供してくれた。私が作り、使っている車椅子はカンボジアの道路事情(悪路)に適合した三輪車タイプのものである。残念ながら日本政府がかつて供与してくれたような、普通の四輪タイプの車椅子はカンボジアの環境では使えない事が多い。
 1994年7月シスターの一人が地雷廃絶キャンペーンへの地雷被害者の参加を呼びかけてきたため、私は対人地雷の全面禁止運動に参加した。始めは国内でキャンペーン活動をしていたが後には海外でもするようになった。今では国内にいる期間は広く障害者支援のために働いている。私は海外各国で地雷廃絶とあらゆる武器の廃絶を全ての人々に訴えてきた。ローマ教皇にもスペイン王妃にもアイルランド大統領にも地雷廃絶を訴えた。対人地雷全面禁止条約には1997年12月122カ国が署名した。同じ12月、ICBLにノーベル平和賞が与えられた。1998年9月末には条約の発効に必要な40ヶ国以上が批准した。しかし、依然として世界から地雷は無くなってはいない。私は今後も地雷廃絶と全ての武器の廃絶に全力を尽くしたい。全世界の人々に地雷廃絶に協力するようお願いしたい。20世紀はあまりに多くの犠牲者を出した世紀だったが、21世紀は犠牲者の無い平和の世紀になって欲しい。そのためにもアメリカが対人地雷全面禁止条約に署名し、批准する事を求める運動に協力して欲しい。どうか私達の運動に協力していただきたい。21世紀に何百万人の子供達が地雷の不幸な被害者にならないように。

(韓国における地雷問題と米軍問題)KCBL 趙 載国

-韓国の地雷の現状-
 韓国半島で対人地雷が使用されたのは1950年6月25日韓国戦争開始からである。特に1953年7月に米軍が休戦ラインに沿って大量の対人地雷を埋設したときである。休戦協定後、休戦ラインを中心とする4〜5キロの幅の地帯を非武装地帯と呼び、3〜30キロの幅の地帯を民間人統制線と呼んで多数の地雷を埋設し今日に至っている。1970年頃から民間人統制線内の田畑を都会の貧しい農民に耕作させるようになって、地雷被害者の問題が起きてきた。しかし農民達は「いかなる事故にも訴えない」旨の契約を軍と結んでおり問題は顕在化しなかった。彼らの存在が世に知られるようになったのはICBLのジョディー・ウイリアムズが1998年2月に民間人統制線沿いの村「金波里」を訪ねて地雷被害者に義足を贈ってからである。この時期に結成されたKCBLの調査によるとこれまでに民間人被害者が千人以上、軍人被害者も3千人を越えていると推測されている。しかし、これは韓国国防部の国会提出資料(1992年から1997年までに78名の被害者と報告)とは大きく食い違っている。国防部資料によると韓国軍は112万5千個余りの地雷を埋設しているというが、備蓄地雷数はその2倍にもなると予想されている。一方在韓米軍の備蓄地雷も米国側資料によると200万個を越えているという。韓国の地雷問題にとって深刻なのが洪水による流出地雷の問題である。新聞によると1998年に軍は358個の地雷を流出し、回収できたのは47個のみという。
-韓国政府の地雷政策と対応-
 韓国政府は「北と対峙している状況で戦争の時、北朝鮮の迅速な攻撃を防ぐために地雷は防衛武器として使えるし、地雷の使用なしにはより多くの兵力が必要となる。また、韓国での地雷は制限された地域だけに厳格な統制の下で使用しているので、他の地雷被害国とは状況が違う。」と説明している。しかし、韓国の地雷政策は米国の態度に影響を受けやすいものである。
-在韓米軍の問題-
 在韓米軍の地位は1953年10月の韓米防衛条約によって定められている。すなわち「相互の合議によって米合衆国の陸軍、海軍及び空軍を韓国の領土内とその付近に配備する権利を韓国がこれを譲り、米合衆国がこれを受諾する。」と定められている。韓国軍に対する平時の作戦統制権は1994年12月1日付けで韓国の合同参謀本部議長に譲られたが、非武装地帯の管理責任は依然として米軍にある。よって地雷問題の責任全般を(被害者への賠償を含め)米軍が負うべきである。

(沖縄における地雷問題と基地問題)沖縄大学教授 佐久川 政一

 40年間にわたって基地問題と取り組んできたが、特定の武器を廃止するという運動はあまり無かったように思う。しかし、B52撤去の運動、毒ガス撤去の運動はあった。沖縄にはあまりに多くの米軍基地があり、何よりも基地を撤去(整理・縮小)せよという運動が優先的にずっとなされてきた。地雷問題といえる事件は1件だけあった。1974年3月に聖マタイ幼稚園の構内で下水道工事中に大爆発が起こり、幼児4人が死亡し34名が重軽傷を負い、周囲200メートル以内の16戸が全半壊したものだった。これは調査の結果、旧日本軍の埋設した地雷と判明し、抗議の結果日本政府が1億6千万円を賠償したが、責任問題はうやむやにされた。沖縄には3500トンの不発弾(地雷も含む)があると言われ、処理には50年以上かかると推定されている。
 今この時間に沖縄では県民抗議集会が開かれている。7月3日深夜に米兵が民家に忍び込み、眠っていた女子中学生に猥褻行為を働いたことに対すること、そして、この事件について基地司令官が知事に陳謝した6日後の7月9日にまた起こった米兵による引き逃げ事件に対するものである。このような事件は沖縄では日常茶飯事に起きている。この原因は、わずか日本の全面積の0.6%にすぎない沖縄に在日米軍の基地の75%が集中し、在日米軍兵士4万3千人の内2万8千人もが沖縄に駐留しているからである。基地縮小または撤去が戦後55年間の沖縄県民の願いであるがいまだに基地は減っていない。原先生の話にもあったが沖縄県民には平和的生存権さえ無いのである。1972年に沖縄が本土復帰を果たしたが28年経った今も状況は変わっていない。1995年には痛ましい少女暴行事件が起こった。1996年9月8日には米軍基地について県民投票が実施され、全有権者の53%が基地整理を希望していることが判明した。普天間基地問題では名護の東海岸に移転する案が出ているがこれはたらい回しに過ぎない。決定を下した知事と住民の間には溝が出来ている。経済振興策と引き替えに基地を受け入れるという風潮があるのは残念である。サミットも沖縄に対する懐柔策の一つである。沖縄の大半の人々は基地反対なのである。7月20日には嘉手納基地を人間の鎖で包囲する運動を予定している。この運動を通じて、沖縄の基地の異常性を全世界各国から集まった4000名の報道陣とG8首脳達に訴えたい。地雷廃止の運動も共通する問題である。21世紀には地雷など使わないようになって欲しい。力の論理ではなく沖縄の心とも言える言葉「ヌチドゥタカラ」(命こそ宝)、「イチャリバチョデー」(出会えば皆兄弟)が21世紀には花開く事を希望している。

(地雷廃絶運動の経緯・問題点と視点)JCBL運営委員 目加田 説子

 対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)の成立の背景には世界の市民が中心となって政府を動かし条約を成立させた経緯がある。1980年のCCW(特定通常兵器使用禁止・制限条約)では探知しにくい地雷の制限を全く規定しておらず、国内紛争における使用制限も規定していなかった。さらに少数の国のみが加入していたという問題点があった。これでは対人地雷の全面禁止は出来ないと考えたNGOが集まって対人地雷全面禁止条約を成立させたのだが、その中心的役割を果たしたのがICBLだった。対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)を遂行し、政府が履行義務を果たしているかを監視し、一つでも多くの国がこの条約に参加していくよう活動していくことが条約を作った者の義務だと認識して、我々JCBLは行動している。
 対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)は生産、使用、備蓄、譲渡の全てを禁止している。日本政府は1997年12月に署名し、1998年9月30日に批准している。日本はこの条約によって保有する約100万個の地雷を2003年2月28日までに廃棄しなければならない。しかし第4条で適用除外を規定しているため15000個を訓練用に残すことになっている。ここで問題になるのは在日米軍の保有地雷の扱いである。条約の署名・批准の前からこの問題は指摘されていた。例えば在日米軍の保有地雷も廃棄する必要があるのか?在日米軍は日本国内での作戦行動の中で対人地雷を使用できるのか?日本国内の在日米軍基地から韓国へ地雷を移送する場合に日本人はその業務に従事出来るのか?といった問題である。批准を審議した国会の政府答弁の中で日本政府の示した態度は以下のようなものだった。在日米軍の対人地雷の貯蔵・保有等は引き続き可能だが、自衛隊及び民間業者による対人地雷の移送は認められない。また、日本政府の政策として在日米軍による対人地雷の使用、開発、生産をやめるよう求めた。自国内に米軍基地を持つ国々(ドイツ、イタリア、ノルウェー、等)も日本と同様の問題を抱えている。その原因はアメリカ政府が対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)に加盟していないからである。
 アメリカ政府は1994年にクリントン大統領が対人地雷を全面的に禁止することを支持すると明言したにもかかわらず、その後のオタワ条約の交渉過程で、米軍の韓国内での対人地雷使用の例外を認めないなら条約に署名しないという立場を貫いてきている。現在では2006年までは条約に参加しないと言っている。また、最近では朝鮮半島の問題に触れずに対人地雷の代替兵器が開発されなければ条約には参加出来ないとも言っている。今日のシンポジウムで再三述べられたように対人地雷をはじめ、あらゆる兵器の使用を禁止することが私たちの願いである。その中で、対人地雷という小さな兵器でさえ、米国政府はその使用の禁止に賛成していない。JCBLは最近の活動として、就任当時から対人地雷の全面禁止を支持すると明言してきたクリントン大統領が、大統領として在職中に勇断を下して1日も早く米国のオタワ条約参加を決めるよう、日本国民の一人一人からハガキを出すことをお願いしているので協力をお願いしたい。


(質疑応答)
 沖縄セントラル病院長の大仲良一博士より、地雷被災者の心のケア、義肢装具の供給バランス、リハビリの施設について質問があり、レットさんが回答し、堀内さん、JCBLの北川代表が補足した。


(沖縄宣言)
 上記の討議に基づき別添のJCBL沖縄宣言を採択してシンポジウムを終了した。



地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)沖縄宣言



 私たち地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)は、対人地雷という非人道的な兵器の廃絶を願って活動する日本国内のNGOネットワークです。また、国際的には、1997年にノーベル平和賞を受賞した地雷廃絶国際キャンペーン(ICBL)の傘下で、他国のキャンペーン団体とも連携を取り合いながら活動しています。2000年7月、G8主要国首脳会議が、第二次世界大戦の激戦地であった沖縄で開催されるにあたり、私たちは、これが平和な世界の構築への決意を新たにし、具体的な成果が得られる会議となることを切に願っております。


 そこで、JCBLは、沖縄サミットに先だち、地雷問題を考えるシンポジウムを沖縄で開催いたしました。この機会に、JCBL沖縄宣言を発表し、各国首脳および日米両国政府に対し、以下を強く要請します。




                          2000年7月15日
                          JCBL代表 北川 泰弘


1 沖縄サミットの議題の一つとして、今回は「紛争予防」が含まれており、小型武器の取引の規制などが議論される予定です。対人地雷も小型武器の一つであり、紛争終結後も除去されずに難民の帰還や農村の復興を脅かし、新たな紛争の火種ともなっています。そこで、あらためてサミット参加各国首脳に対し、サミット最終宣言に、これ以上地雷の被害が広がらないよう、具体的方策を盛り込むことを要請します。
2 日本政府は、これまで対人地雷の問題に対し、地雷の全面禁止条約(オタワ条約)を短期間に批准し、「犠牲者ゼロ・プログラム」として5年間で100億円の支援を掲げるなど積極的な姿勢を示してきました。「人間の安全保障」を重視した故小渕前首相の政策が新政権にも継承され、日本政府として約束した事柄が引き続き誠実に実施されるよう、責任ある対応を求めます。
3 地雷の全面禁止条約であるオタワ条約には、現在137か国が参加していますが、残念ながら大国の米国はこれに加入していません。そのため、日本がオタワ条約を批准した現在でも、国内の米軍基地、とりわけ基地の集中する沖縄の中から対人地雷をなくすこと はできません。これは、米軍基地が置かれている他の国々でも同じように問題となっています。このような状態を一日も早く解消し、地球規模での地雷廃絶を達成するために、米国は早期にオタワ条約に加入し他の未加入国の加入をも促進する役割を果たすことを求めます。
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「ユーゴスラビアへのNATO空爆終了一周年記念式典」に参加して


2000年6月14日(水)18:00 ユーゴスラビア大使館

 6月はじめユーゴスラビア大使館からNATO空爆終了一周年の記念式典への招待状が届いた。一体どんな基準で選出されたのかと訝しがりながらも、大使館の「パーティー」へ招かれることなどそう何度もある事ではないので出席のFAXを入れた。また、一方的に悪者にされたユーゴ政府の言い分を聞くことも必要と思ったのも事実である。さらに、私にはもう一つ目的があった。それは「ユーゴスラビアにおけるNATOの犯罪」というユーゴスラビア政府発行の書籍を手に入れることであった。というのも3月のクラスター爆弾のシンポジウムの際に紹介されたその書籍を大使館のヤンコヴィッチ女史に手紙を書いて手に入れようとしたのだが、全く何の音沙汰もなかったからだ。集まったのは約30名の日本人で、皆すでに何らかの形でユーゴスラビアと関係を持っている人たちだと、雑談の内容からも明らかだった。
会場にはNATO空爆被害のリアルな写真が何十枚も貼られていた。大使は定刻少し前に到着し参加者の一人一人と挨拶を交わした。講演は定刻を少し過ぎて始まった。特命全権大使であるラドスラブ・ブライッチは原稿を見ながら流ちょうな英語で聴衆に語りかけた。参加者にはあらかじめ日本語の翻訳が配布されていた。

「大使の演説の概要」
1. NATO空爆の意味

 国連憲章と国際法に違反した独立主権国家に対する侵略行為であり補償をされるべきである。

2. 被害の実態

 民間人2000人以上が死亡し、6000人以上が重傷を負い、市民生活に不可欠な非軍事的なインフラが破壊された。歴史的建造物群も同様で、被害総額は10兆円を超えると試算されている。また、劣化ウラン弾、35000発を越えるクラスター爆弾、31000発以上の一般弾薬の使用は深刻な環境破壊と住民への継続的な脅威(不発弾による被害)を残している。NATOの攻撃は当時マスコミによって報道されていたような、軍事施設及びそれに準ずるものでは決してなかった。明らかに民間人を目標とした攻撃が繰り返された明白な証拠(多くの悲惨な写真記録)がある。

3. NATO空爆への評価

 ハーグ国際裁判所の主任検察官カーラ・デル・ポンテは「ユーゴスラビアに対してNATOが犯したとされる犯罪捜査を開始する根拠は存在しない。」と語ったが、アムネスティ・インターナショナルアメリカ支部の報告書ではNATOの攻撃は戦争法規と国際法に甚だしく違反していると報告されている。

4. コソボ問題の現況

 国連コソボミッションは成功していない。非アルバニア系(主にセルビア人)住民へのテロ行為が依然として続いている。空爆後約36万人の非アルバニア系住民がコソボを追われた。

5. ユーゴスラビアの復興

 NATO軍の空爆の結果1999年の国内総生産は1989年当時の43%まで落ち込んだ。復興には長い時間が必要である。ただ、国を挙げての努力により、基本的なインフラの復興は着実に進行している。今後はEU諸国の制裁解除を一日も早く実現させたい。

6. 日本への感謝

 NATO空爆後の日本の人道的支援、NGO活動に大変感謝している。


 講演のあと質疑・コメントの時間が設けられ活発なやりとりがあった。私もユーゴにおける不発弾の被害の状況と除去の現状、今後の不発弾処理の支援要請について質問した。
 答えは、現在ユーゴ軍、民間、海外NGOが除去作業にあたっているが、不発弾の数があまりに多く処理が間に合っていない。一般市民(子供が多い)の被害は増え続けている。今後も諸外国の人的、経済的支援を要請していきたい、とのことだった。さらに、空爆中も空爆後もユーゴスラビアの発信するニュースが日本のマスコミに掲載される機会がほとんどないことについて感想を求めたところ、報道の努力は非常に精力的にしているが、日本のマスコミはほとんど関心を示してくれないと言う。


 午後8時過ぎからは簡単なパーティーが開かれ、気さくに大使・公使と話しができた。大使は元FIFAの役員で大変なサッカー好きとのことで、名古屋グランパスのストイコヴィチとも勿論面識があった。午後8時40分、手に入れた「ユーゴスラビアにおけるNATOの犯罪」をバッグに入れ大使館を後にした。
 全体としてNATO非難を全面に押しだし、民族紛争の説明とユーゴスラビア政府の取った政策については直接語らないというプロパガンダ的要素の強い講演だったが、NATO発表(アメリカのマスコミ主導の)のみに接してきた私には新鮮な感じのする機会だった。
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オタワ条約発効1周年記念シンポジウム「クラスター爆弾の脅威」に参加して

2000年3月9日(木)19:008(今回はまず要約を紹介し、その後で感想を書く)

 JCBL運営委員・事務局長:清水俊弘氏の挨拶でシンポジウムが始まった。参加者は約60名。紹介されたパネラーは東海大学教授でJCBL運営委員でもある首藤信彦氏、講演をする軍事アナリストの江畑謙介氏、ユーゴスラビア大使館三等書記官のスネジャナ・ヤンコヴィッチ氏の三人。


 まず、クラスター爆弾をなぜ取り上げたのかの説明があった。クラスター爆弾の不発率が3から10%もある点。クラスター爆弾が対人地雷と同じ効果(一発の効果は対人地雷より大きい)を持つ点が説明された。具体的な事例としてイラクのクラスター爆弾が紹介された。また、ベトナム戦争のボール爆弾で禁止されたはずの残虐な兵器(クラスター爆弾)が再びイラク、ボスニア戦争、コソボ紛争で使用されているという事実に愕然としたとの感想があった。続いてアメリカは「人道的介入」の欺瞞性ゆえに自国の兵士を失わないための戦術兵器として、クラスター爆弾を使用したとの分析もあった。このクラスター爆弾がコンゴの内戦でも使われる可能性があることも指摘された。


 最後に、クラスター爆弾が対人地雷にも増して残虐で深刻な兵器であるゆえにJCBLはこれを取り上げ、同時にファッション化した対人地雷を見つめ直したいと結語した。




 江畑謙介氏は講演の冒頭、自分の主義主張、価値観に基づいての意見は述べないと宣言した。あわせて氏はクラスター爆弾を客観・中立に説明したいと続けた。対象を明確に把握し、どういう対応が出来るかという、現実的かつ建設的な方策を生み出さない限り物事は進歩しないとも断言した。その後クラスター爆弾についてのいろいろな説明が続いた。以下はその要約。

1. クラスター爆弾の概要と種類

 * クラスター爆弾とは:多数の子弾を収容し、空中で散布する航空機投下型のコンテナ。
 * 当初の目的:1960年代に低空で侵入し爆弾を投下する戦術があったが命中精度が低かったため、それを補う目的で開発された。
 * 技術の進歩により小弾にいろいろな種類が出現した。(対人用、対非装甲型車両用、対装甲用、対物資用)これらの中には、インテリジェント型と呼ばれる自己誘導型も出現した。
 * 使用範囲の拡大:敵の一定地域の使用・通過を阻む目的で使用されるものもある。地雷と同じ目的。
 * 不発弾の出現率はクラスター爆弾も約10%と経験的に推定される。
 * クラスター爆弾をミサイルや弾頭に入れる場合もある。
 * クラスター爆弾の子弾が地雷そのものの場合もある。
 * 小弾の種類が複数の場合もある。

2. クラスター爆弾の使用禁止、制限上の問題点

 * 何をクラスター爆弾と定義するのかが困難。
 * 制限するのを子弾だとすると外から見えないので困難(コンテナに色分けする方法はある。)
 * ある種の子弾を制限するとしても区別・検証が困難
 * 複数の子弾を混載するクラスター爆弾をどう制限するかも難しい
 * 時限無力化機能を持った子弾の制限はどうするか(100%はあり得ない)
 * 対人地雷が概ね禁止された現在において、クラスター爆弾まで禁止されたら使用・通過拒否型の代替兵器が容易に開発出来ないため、軍事筋の抵抗はとても強いと思われる。




 清水氏の感想:クラスター爆弾の禁止には単なる技術論ではなく人道的な見地からしかアプローチが難しいだろう。




 スネジャナ・ヤンコヴィチ氏はユーゴスラビア政府の発行になる「ユーゴスラビアでのNATOの犯罪」という白書のスライド写真で市民の被害の実態を訴えた。クラスター爆弾が大量に使われたニヒの町の被害者写真も紹介された。また、コソボ紛争が終わった今も不発のクラスター爆弾による幼い子供たちが被害に遭っていることが紹介された。




 清水氏からICBLの中でクラスター爆弾をオタワ条約の対象にすべきか否かについて活発な議論があったことが紹介された。




 JCBL運営委員の真野玄範からクラスター爆弾についての様々な議論の展開について紹介があった。結論的にはICBLとしてはクラスター爆弾は取り扱わないが個々の国のキャンペーンがクラスター爆弾禁止の問題に取り組むことは問題無いということである。


 この後質疑の時間がとられた。


 出席者の一人として江畑氏の客観的な説明、分析に拍手を送った私だが、氏の技術的視点からのクラスター爆弾禁止(制限)は困難という意見には賛成しかねるものがあった。例えば、子弾を収容するタイプの爆弾はすべて禁止するという内容の制限条約の締結は可能ではなかろうか。また。使用、通過拒否型兵器の代替案はクレイモア地雷の例もあるようにいくらでも出てくると思われる。根本的には戦争(あらゆる武力紛争を含む)という愚かな行為を終焉させなければ空しい作業なのだが、無垢の市民が戦争の終結後に被害に遭うという馬鹿げた事態は避けるべきであり、クラスター爆弾の禁止(制限)は絶対実施されるべきだと思っている。

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