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定期講演会記録5

第5回 中部地雷問題支援ネットワーク定期学習会
カンボジアの地雷犠牲者のために何ができるか
~カンボジア・イエズス会サービスの活動から~

horiuchi.jpg堀内紘子さん

開催日時   2001年5月20日(日) PM2:00
開催場所   名古屋市瑞穂生涯学習センター
講  師   堀内紘子(カンボジア・イエズス会サービス)
参  加   15名

ICBL国際大使 トゥン・チャンナレット氏の活動ビデオ「地雷 元兵士の証言」上映

 対人地雷によって両足を失った元兵士で、1997年にノーベル平和賞を受賞したICBL(国際地雷廃絶キャンペーン)国際大使のトゥン・チャンナレットさんの活動を紹介したNHK製作番組(1998年)「地雷 元兵士の証言」を鑑賞。車椅子製造の仕事をしながら、ICBLの国際大使として世界各国で地雷廃絶を訴え続けているチャンナレット氏の姿と、彼の言葉を紹介していた。彼は言う。「私の使命は地雷の廃絶を訴える事だけではなく、人の心の中の地雷を無くすことだ。

堀内紘子さんのお話

 皆さん、地雷がどうして出来たか知っていますか?第一次世界大戦(1914年~1918年)に登場したタンク(戦車)に対して対戦車地雷がまず使われました。しかし、対戦車地雷は人が簡単に除去出来るものでした。対戦車地雷は多少の重みや振動では爆発しないのです。そこで、対戦車地雷を除去させない目的で、その周りに対人地雷を敷設したのです。対人地雷は人を負傷させることを目的としています。負傷者を看護・移送するために人手をかけさせ、結果として進軍を遅らせ、攻撃兵力を減少させるための兵器です。

 戦争に使われる兵器は、壊れて放置されたものを除き、一般的には全て戦場から持ち帰られます。しかし、埋められた地雷は掘り起こして持ち帰られることはありません。あるイギリス人は地雷のことを「眠れる兵士」と呼びました。そこで、ずっと地中で誰かが踏むのを待っているこの「卑怯な」兵器を無くそうという運動が起こってきたのです。

 対人地雷禁止運動は世界中に広まったのですが、特徴的なことは、その運動がインターネットを通じてなされたことです。実際、事務所が存在しない運動だったのです。例えばICBL(国際地雷廃絶キャンペーン)も中心になっている人の家が事務所のようになっているだけです。日本でもJCBLとか、中部地雷問題ネットワークとか色々ありますが、みんなそれで収入を得ている訳ではありません。皆、他に仕事を持っていて、それ以外にこの地雷廃絶の仕事に携わっているのです。これはまさにコンピューターが可能にした運動の形態です。

 さて、今日は皆さんにカンボジアの地雷犠牲者のために何が出来るかという題目でお話するのですが、まず、私たちカンボジア・イエズス会が地雷犠牲者のために何をして来たかを紹介します。そして、何故そういう支援をしてきたかを紹介する事によって、皆さんが何が出来るかを考えていただきたいと思います。イエズス会はプノンペン近郊に身体障害者を対象とした訓練学校を持っています。この学校に入学するには三つの条件があります。身体障害者であること、貧しい家庭であること、そして、家族が賛成してくれることです。この学校は一年間寮生活で訓練を受けます。従って米の収穫時期でも家には帰れないことを家族の人が認めてくれなければ入学出来ないのです。この学校の目的は"Disabled is able."です。つまり、障害者が仕事を出来るようにして自信を持って生きられるようにすることなのです。

 まず、知っておいていただきたいのはカンボジアは貧しい人々の集まって出来た国だという事なのです。健常者でも収入は少ないのです。地方に行けば、ほとんどの人が米を作るお百姓さんなのです。歴史的に見てもカンボジアは5パーセントのエリートと95パーセントの識字不可能な米作百姓の国なのです。亜熱帯の気候と豊かな水が米の栽培を促進し、果物も豊富で、魚も良く捕れる訳です。カンボジアでは働くと言うことは食べ物を探すという事に繋がっています。カンボジアでは働かないで食べていける人を「怠け者」とは呼びませんでした。むしろ、必要な食料が働かなくても手に入る幸せな人と見なしたのです。現在のカンボジアでは自然の恵みだけでは生きていけませんが、村の人口の80パーセントの人たちが米と野菜を作り、魚を捕って生活している訳で、人口の27パーセントの人々は月収2,000円以下です。食べていく以外のお金はその程度で良い訳です。

 カンボジアにおける識字率は男性50パーセント、女性25パーセントです。小学校卒業した女性は15パーセント、男性20パーセントです。ましてや高校卒業となると非常に少ない訳です。ところで、日本の識字率はどれくらいでしょうか。私は日本に帰って来るたびに日本人に字の読める人、読めない人がいることが分かりました。70パーセントの人が字が読めて、書けて、理解できると思います。なぜかというと、「放置自転車禁止」と書いてあるところに自転車がわーと並んでいるし、「優先席」という所の前に子どもを抱いた人やお年寄りがいても平気で座っている人がいたり、マクドナルドの禁煙席で堂々とたばこを吸っていたりするからです。これは字が読めないからかなと思います。もう一つ例をあげますと、JRのプラットフォームで電車を待っていると、「電車が入ってきます。危ないです。」と言うのです。私は危ない物は走らせるなと言いたいです。駅のプラットフォームで飛行機やタクシーを待っている訳ではありません。どうして電車が危ないのかと言いたいです。危なくないですね。「扉が開きますから気をつけて下さい。」、「扉が閉まりますから気をつけて下さい。」と言います。これも盲目の人には親切かも知れませんが、周りの人が気をつけて助けてあげればいいのです。行き先を告げる車内放送も行き先が掲示してあれば不要ですね。デパートで、「エスカレーターではお子様の手を引き、中央にお乗り下さい。」とアナウンスされますが、子どもを注意するのは親の責任ですね。デパートのやっているのは単なる責任逃れです。余談でした。

 カンボジアの教育がなぜ貧困なのかという事を考えてみますと、5パーセントのエリートと識字の出来ない農民という構図は王様にとっては都合が良い訳です。フン・セン現首相は選挙前にフン・セン学校と呼ばれる二部屋だけの学校を作りました。ところが、それらは今全部閉まっています。単に選挙の宣伝のために作ったのです。カンボジア・イエズス会も学校を作りたいと思っていますが、先生になる人がいないのです。カンボジア全土の村の47パーセントに小学校すら無いのです。学校の先生を養成する大学も無ければ、教員免許の制度もありません。村には字の読み書き出来る人はほとんどいませんから、その中から選ばれた先生の質は高いとは言えません。また、小学校の先生の給料は2,500円位です。これでは生活していけません。警察官も2,500円です。他の公務員は普通6,000円位です。生活に困る警察官が何をするかというと、適当に道路で車を止めて運転手にお金を要求します。拒絶すれば道を進むことが出来ません。また、本来トラックの通れない道も賄賂を払えば通してもらえる訳です。つまり収入の少ない彼らはいかに賄賂を得て生活していくか、という事ばかりを考えているのです。国の省庁に行っても同様で、何か必要な手続き書類を貰おうとすると決まって2,400円ほど請求されます。もちろん規定外の請求です。別の例ですが、カンボジア人がパスポートを取ろうとすると正規の料金12,000円以外に8,000円を要求されます。これも賄賂です。ともかく、役人は上から下まで全く罪の意識がありません。学校の先生も賄賂が悪いとは教えません。実際、先生たちも賄賂無しでは生活していけないのです。

 カンボジアはアジアの中で最も人材に恵まれない国です。ポルポト時代に国民のうちの300万人が殺されてしまったからです。クメール・ルージュは完全な真のカンボジアを作ろうとしたのです。全く外国からの影響のない国を作ろうとしたのです。だから、眼鏡をかけていると必ず殺されたのです。眼鏡はカンボジアで出来た物ではないからです。大学の先生はみんな殺されました。大学の先生は外国の影響を受けていたと見なされたからです。それで、大学の先生は国外に逃げた人以外は殺されたのです。お医者さんも殺されました。こうして教える立場の人がいなくなってしまったのです。そういう訳でカンボジアには未だに義務教育が無いのです。

 カンボジアに於ける身体障害者(地雷犠牲者も含んで)は社会の重荷として生きて行かざるを得ない状況にあります。身体障害者は手がない、足が無いという理由で健常者から馬鹿にされます。カンボジアが農業国だから生産に役に立たない障害者は見下される事が多いのです。カンボジアは貧しい国でみんなが貧しいのですが、身体障害者はもっと不利で貧しいのです。私たちカンボジア・イエズス会はそういう身体障害者の人々を助けようとしています。私たちの活動の一つに小児麻痺のワクチンを配っていることがあります。それによって、今ではカンボジアの0歳から6歳までの幼児に小児麻痺の子がいない状況が実現出来ました。また、私たちが支援している1316家族の身体障害者世帯のうち、61パーセントは地雷の犠牲者なのです。地雷の犠牲者が医者にかかる時、本来なら国が面倒を見て無料にすべきなのに、実際には医者は医療費を患者に請求しています。統計によると、1999年のプノンペンを除いた、カンボジアの各地方に於ける年間総医療予算は45万円位でした。この金額はカンボジアではかなりの大金ではあるのですが少ないものです。ところが、実際に医療に使われたのは7万円に過ぎません。後はみんなどこかに行ってしまいました。予算配分の段階で次々と誰かのポケットに入ってしまったのでしょう。こんな状況ですから日本政府がカンボジア政府に寄付すると、半分以上が無くなってしまうのです。私たちは日本政府の外務省の人がカンボジアにみえた時に「なるべく政府に援助しないで、良く働いている組織にあげてください。」と申し上げたのですが、「20パーセント位(の賄賂)は仕方無いでしょう。」と簡単に答えられたのには驚きましたし、日本国内でも同じ事をやっているのかなとも思いました。

 地雷を踏んだ身体障害者は、身も心もぼろぼろになって、チャンナレットさんが言っていたように「死ぬことばかり考える。」ようになるのです。もう彼らには生きていこうにも、どうにもならないからです。チャンナレットさんは幸い、2番目の子どもの「パパ!」という言葉を聞いて生きようという姿勢に変わりましたが、大部分の地雷被害からの身体障害者は「自分たちは社会から認められない人生の敗退者だ。」と思っているのです。私たちは彼らに、たとえ手や足が無くても何かが出来るのだと教えたいのです。先ほどお話ししました身体障害者のための職業訓練校で彼らと一緒に暮らしてみると、彼らが片足でバレーボールを上手にやったり、片手で溶接が出来る事が分かって驚かされます。ある両腕切断の身体障害者は学校の先生をしています。両肘の上で切断されているのですが、切断部の近くに腕時計がはめてあって、そこに食事の時はスプーンを、授業の時にはチョークを挟んで、食事や板書を自然にしています。このように身体障害者の人には教育の機会が与えられる事が大切なのです。そして、それが彼らの自信になるのです。私たちの身体障害者職業訓練校はこうした機会を分かち合っています。

 もう一つお話しますと、私たちの職業訓練校では車椅子を作っています。この車椅子は三輪車です。普通の車椅子と違って前に一つ車輪がついています。普通の四輪の車椅子は、道路状況の悪いカンボジアでは役に立たないのです。ある時日本政府が100万円分の車椅子を寄付してくれるという話がありました。そこで私たちは大喜びで応募しました。ですが、届けられた一台10万円の日本製の車椅子はカンボジアでは使い物にならなかったのです。カンボジアでは車椅子は一台8,400円位で出来ます。カンボジア製の車椅子は木製で車輪には自転車の車輪を使います。そして、折り畳みは出来ません。ですから車で運ぶときは、車輪をはずしてから乗せます。そうすると、小型のタクシーでも乗せられます。でも、ある時本体と車輪を別々のタクシーに乗せたときには、うまく二台のタクシーが合流出来ず冷や汗をかいたこともありました。カンボジア製の車椅子の特徴は他にもあります。座るところが木で出来ているのです。そのによって、車椅子の利用者はその木をずらすことによって座ったまま用を足す事が出来るのです。カンボジア人に合うように作られている訳です。さらに工夫のことを申し上げますと、足踏み式のミシンを車椅子の座り板を利用して動かせるようにしたものもあります。

 日本政府のしてくれた車椅子寄付に戻りますが、日本製の一台10万円のりっぱな車椅子より、カンボジア製の車椅子100台の方がありがたい訳です。この例から分かりますように援助をする場合には良く現地の必要としている事を調べておくべきです。「魚をあげるのではなく魚を釣る釣り竿をあげなさい。」とよく言われます。この教訓はいつも生きている訳です。別な例で言いますと、もし、どこかの国の人々が大きな石を運ぶのに難儀をしていたら、トラックを持ってきて運んであげるのではなく、丸太を敷いて移動させる方法を教えてあげる方が将来を考えた場合理にかなっているのです。トラックの運転、メンテナンス、燃料の確保等が出来なければ彼らの石運びの苦労はまた、また再開するからです。「教育」こそが必要なのだと私は思います。

 私はカンボジアの難民キャンプに居た時にも主に教えることをしていました。教えることによって彼らが自立することを望んでいました。私たちの活動は数多くありましたが、職業訓練校とか何か組織を作るとき中心になるのはいつもカンボジア人にしました。私たちは彼らを支え指導者育成に力を注ぎました。後日カンボジア難民が帰国して私に言ったことは「私たちは帰国する時、何も持っていませんでしたが、難民キャンプで受けた教育を身につけていました。」ということです。カンボジアは1970年代から戦争に次ぐ戦争でした。彼らは1982年頃難民キャンプに来て生活してきました。それまで小学校も中学校も行っていなかったのですが、難民キャンプには教育施設が整っていました。狭い難民キャンプの敷地でやることのない若いカンボジア人は、こぞってキャンプ内の学校に集まってきました。日本語の教室を開いたところなんと600人も希望者が集まりました。そこで驚いたのですが、集まった人の中には基本的な学力が全く身に付いていない方もたくさんいたのです。ある時高校の先生にカレンダーの作り方を教えて欲しいと言われました。高校の先生に何でカレンダーなんだろうと思いながら、定規を与えてカレンダーの日付と曜日のマスを書かせてみて分かりました。彼らは定規を使ったこともないのです。まず、まっすぐ線が引けませんし、等分も出来ません。一週間分の7マスのために8本線がいるなんて事は論外だったのです。こんな調子でしたが、先ほど紹介したカンボジア人のように難民キャンプで学んだ事を、帰国後に生かしてNGOや国連の機関の職場で仕事を得ることが出来たのです。このような事例は全体からみれば、非常に小さな数字でしかないかも知れませんが、エリートでない普通のカンボジア人が教育を得た貴重な機会だったと思います。カンボジアの教育の状況は大変送れています。皆が普通に教育を平等に受けられるようになるにはまだ、何世代も掛かると思います。

 カンボジアでは女性の半分くらいは読み書きが出来ません。その理由として子育てのために教育の機会が奪われてしまうことが揚げられます。カンボジアのような農耕社会では労働の担い手を得る必要もあって多産です。カンボジアでは母乳で赤ちゃんを育てますから、2歳くらいまではお母さんが赤ちゃんの世話をしますが、3歳以上になると6~7歳になっている上の女の子が面倒をみることが普通です。と言うことで就学し始めた女の子は学校に行けなくなって、結果、読み書きもできないということになるわけです。

 戦争で兵士が地雷の犠牲になるのは仕方ないと思いますが、実際には地雷犠牲者の約80パーセントが一般市民であり、その中でも女性や子どもたちが多いのです。つまり、カンボジアの田舎には電気、水道がありませんから、ご飯を炊く場合には、まず、川に水を汲みにいきます。その時通る野原で地雷を踏んでしまうのです。燃料の枯れ木を林に取りに行ってそこでも地雷を踏んでしまうのです。私たち日本人は毎日三食の食事が出来て、電気・水道がありますが、全世界の中で、私たちと同じ状況にあるのは20パーセントの人達に過ぎません。私たちは世界の中では少数派です。残りの80パーセントの人達は飲める水が無く、電気が無く、仮にあるとしても一日一時間だけと言うような状況です。カンボジアにしても町から20キロメートルも離れれば電気はありません。ところが、富(お金)は逆に20パーセントの地域に85パーセントが集中しているのです。分かりやすく言いますと、ある地域では一人が生活費として1ヶ月8万5千円使える一方、4人で1ヶ月1万5千円の生活費を分けあわなくてはならない地域もあるのです。こんな言葉をご存じでしょうか。「援助貴族が貧民巣食う。」と言う言葉です。意味は援助すればするほど援助する側がますます富んでくるという皮肉です。援助を考える場合には思慮が必要だと思います。国連の例を申し上げますと、世界各国から集められた寄付の80パーセントは人件費と経営費に充てられます。そして残りの20パーセントが貧しい人達のために使われています。具体的に言いますと、月給30万円の人の寄付1万円が、月給100万円の国連職員の給料支払いに大部分使われるという事が起こるわけです。東京の青山にある国連大学も大変立派な施設ですが有効に利用されていません。あの大学は日本が国連に寄付した見返りに建てられたものです。日本の寄付は義務的な経費として支払われ、本当に今必要としている相手に寄付されるということが希なように思えます。これはもったいない事です。皆さんは、NGOと聞かれるとボランティアを想像すると思いますが、現実は全く違います。NGOは一つの会社のようなものなのです。仮に皆さんがあるNGOに加入して、訓練を受けてどこかの国に派遣されるとします。皆さんは今30万円の給料を貰っているとしたら、その国に赴任したら6万円の給料になるかも知れません。皆さんはその時、6万円しかもらえないと思うかも知れませんが、その国では6万円はとてつもない大金なのです。日本で生活していたら、家賃から何から払うと残りが6万円などということはざらでしょう。ところがあちらでは住居はただで支給されますし、諸々の便宜が与えられるのです。6万円の価値がまるで違うのです。ですから、それはボランティアではないのです。

 カンボジアでは先ほど申し上げたように300万人が殺されました。そして地雷の被害のために263人に一人の割合で足を失った人が居ます。片足を失った場合には松葉杖か、義足を装着出来ます。でも、腿の一部しか残っていない場合には、支える物がないため義足をつけられません。チャンナレットさんの場合には別の理由で義足が使えません。それは、体内に残った多くの地雷の破片です。義足の圧力が破片を圧迫するとひどい痛みを引き起こすのです。また、破片は体内で動き続けて居ると言うことです。時にはそれが皮膚を破って出てくることもあるそうです。そのため破片を体内に残したままの被害者は病気がちになります。今、カンボジアは新たな問題を抱えています。それは一日100人を越えると言われる、HIV感染です。なぜ、HIVがそんなに急速に感染を続けているかという点ですが、それはカンボジアの文化に由来します。私が難民キャンプで学生を教えていたとき、ある学生が質問してきました。「日本語でsecond wifeをなんて言うのですか?」というものでした。私は、わざとしらばっくれて、「奥さんはたった一人しかいないものだ。」といってやりました。そうすると、その男性生徒は「いや、僕たちは三人くらい(妻が)居てもいいんだ。」と言うのです。私もその風習は知っていましたが、また。とぼけて「それはすばらしいわね。それなら、私も三人の夫を持てて幸せだわ。」と答えました。ところがそれに対する、男子学生達の反応がとてもショッキングでした。「とんでもない。絶対だめだ。」と言う訳です。日本でもこうした差別はありました。男性なら仕方ないが、女性が男の友人を持っていると悪い女と言われたのです。カンボジアでは今でもこれが続いているのです。「私が男女平等でしょう。」と言っても「だめなものはだめ。」と譲りませんでした。「人権」という問題について言いますとこれも彼らにとっては言葉だけです。これは日本に於ける三権分立が言葉だけで、立法府の国会が大臣を決め、国会議員が多く大臣になっている状況と同じです。ある時カンボジア人学生に向かって「あなた達に人権という言葉は必要ない。」と言いました。学生達は憤慨して私に反論しました。私はこう言いました。「あなた方のこの国では妻と子ども6~7人いる男性が、ある日突然家庭から消えてしまい別の若い女性と暮らし始めるなどいう事が幾らでもある。彼らの生活の面倒を全く見ないで、彼らの命を(人権を)捨て去ってしまう男に人権を語る資格がありますか。」フン・セン首相が建てた学校も一緒です。ただ、選挙の票集めのために作ったのです。建物だけで中身が無いのです。今は先生も生徒もいない空の小屋があるだけなのです。

 カンボジアでは土地の権利に関する規定がありません。平和な時はそれで良かったのですが、1970年くらいから戦争が始まりました。危険を避けて自分の農耕していた土地を離れ、10年くらいして帰ってくると地雷が埋まっていることが分かりました。敵も味方も無差別に、でたらめに大量に埋めたのです。どこに埋めたのか誰も分からない状況なのです。それで地雷除去をして貰うのですが、地雷除去が終わるとなぜか除去した人達(政府の機関の人達)は軍人に売ったり、彼らが自分のものにしたりするのです。こうして土地を取り上げられた人達がたくさん居ます。彼らは結果としてへんぴな場所に移動せざるを得ません。先ほど見ていただいたビデオに出てきた開拓村もへんぴな所です。そこで働いていた人達はシエムリアップというアンコールワット遺跡に近い町で物乞いをしていた人々です。始めは町に溢れていましたが、だんだん観光が盛んになってきたため政府がみっともないと言って退去させたのです。カンボジア・イエズス会も頼まれて必要な土地や資材を用意し、彼らを生活必需品と共にトラックに乗せて運びました。物乞いで暮らしてきた彼らにとって働くと言うことは大変な事なのです。私たちは彼らが助け合って生きていくことを望んだのですが、ポル・ポト時代に信頼するという事がすっかり失われてしまったのです。あのポル・ポトが生死の境をさまよった時、付きっきりで看病した人がポル・ポトに殺されてしまったりしたのです。フン・センもポル・ポト派の一員でしたが、いつ殺されるか分からないというのでベトナムへ逃げ出したのです。ポル・ポト時代は人を信用したら殺されるという時代だったのです。カンボジア人は皆そういう時代を生き延びてきた人達なのです。ですから今でも彼らは人をほとんど信用しません。トゥン・チャンナレットの話なのですが、ある時彼が友人に「親友は私の宝だ。」といったところ、その友人は「親友はだめだ。私は親友は絶対作らない。」と言ったそうです。なぜそう言ったかを説明して、家族ぐるみでとても親しくしていた家族の例を話しました。一方の親が他方の娘を「いい仕事がある。」と言って売春宿に売ってしまったと言うのです。

 身体障害者と共に生きるということについて言いますと、彼らと一緒に生活することによって、他人を思いやる気持ちがはぐくまれると思うのです。だから、障害のある子は学校に行って健常者と一緒に学ぶべきだと思うのです。別の話になりますが、マザー・テレサの「死を待つ家」と言うのをご存じですか。「死を待つ家」は初めインドのカルカッタに出来ました。道路脇に生活するカスト制の最下層の人達の内、もうすぐ死にそうな人達だけをそこに収容したのです。彼らの身体を清め、ベッドに寝かせ、彼らが人生の最後に、初めて人に優しくされたという喜びの中で死を迎えられるようにしたのです。マザー・テレサは言っています。「愛の反対は憎しみではない。無関心だ。」私たちは、世界の中で20パーセントに属する裕福な人間なのです。私たちの裕福な生活が貧しい国の資源を食いつぶして成り立っていることを考えて下さい。カンボジアでは森林伐採の急速な進展が国を疲弊させているのです。本来、カンボジアでは木材の伐採は禁じられていますが賄賂次第でなんとでもなってしまうのです。フン・センもこれで大儲けしているのです。あと5年も経てばカンボジアから良質な木材は無くなるでしょう。かつてのポル・ポト派が勢力を保ったのも木材と宝石を売って武器を調達したからです。

 日本政府の援助について言いますと、見返りに日本の企業が大儲けしている実態があるのです。日本政府は援助を円借款やランドクルーザーの寄付というような形で行います。当然道路作りが必要となりますが、これに参入する日本企業はここでしっかり儲けます。確かにインフラ整備は必要なのですが、見返りの約束された援助で良いのでしょうか。この状況はアフリカでも一緒です。私はかつてエチオピアの北方地域に行ったことがあります。そこにはNGOが入っていませんでした。だからとても自然だったのです。土の家でぼろ切れに寝かされた赤ちゃん、そしてハエがいっぱいでした。まるで二千年の歴史が止まっているかのようでした。カンボジアでも地方は同様に貧しいのですが、都会は違います。将軍が百人以上いてホテル経営をしたり豪華な家に住んでいたりします。カンボジアの国家予算(およそ100億円)の半分は外国からの援助金です。しかも、その予算の半分を軍隊と警察に使っています。戦争をしていない国でこの数字は異常です。そこでカンボジアは兵士を減らそうとしているのですが、無学な兵士が社会的に自立するために訓練が必要だとして、ますます世界各国に援助金を求めているのです。

 アメリカは地雷廃絶を実施していません。北朝鮮と韓国の間の軍事境界線に地雷が必要だからと説明しています。アメリカは2006年までに、もし地雷に代わり得る兵器が開発できたなら地雷禁止条約に署名すると言っています。今の先頭技術からして地雷は必要ないと思われます。アメリカの軍人にも地雷は不要だと言う人がいます。

 カンボジアで支援活動に携わっていて思うことは、彼らに自立の精神が欠けていると言うことです。一年以上も教えても自分たちで作業が出来ないし、しばしばものを盗む事もします。彼らは互いに信頼し合ってリーダーを決めて物事を進めていくと言うことが全く出来ません。カンボジア人からリーダーを選ぶとやっかみやら不信やらで全く仕事にならないのです。特にお金の事に関しては信用なりません。でもこれはカンボジアだけに限ったことではありません。アフリカも南米も一緒です。彼らの貧しさの原因は「人災」だと思うのです。私がカンボジア人に切に望みたいのは自立の精神を養って欲しいと言うことです。ここで、私たちNGOもいままで、何かというと「ものを与える」援助をしてきた事を反省すべきだと思います。例えば家の無い人に「家」を建ててあげると、今度は生活費を与えなければならなくなり、また教育費も与えなくてはならないといった具合で、際限なく援助を続ける事になってしまいがちです。そこで、我々が思い切って援助をうち切ると今度は、彼らの恨みを買う事になります。国民性もあるかも知れません。ベトナム人の避難キャンプでは彼らは自分たちでリーダーを選び、うまく物事を進めていきました。しかし、カンボジア人の避難キャンプではこうした動きは全くありませんでした。

 私のボランティア観を言いますと、「自分の出来ることを自然にする事。」となるでしょう。家族のために食事を作ったり、病気の家族を看病したり、自分の学校の掃除をしたりすることは当たり前の事でしょう。これと同じように自分の出来ることを他の人のために出来ることはすばらしいことだと思います。自分にとって大したことでなくても相手に喜ばれるともっと誠意を持ってしてあげれば良かったと思います。私がこういう風な考え方をするようになったのは、小さい頃から母の行動を見ていたからだと思います。母は廃品回収の人やくみ取りの人達と一緒に食事をしていました。私にとっては当たり前の光景でしたが、大人になって彼らが差別されていた事を知りました。また、母は学校の行事によく協力して働いていました。私も、出来ることはする、という態度で生活していました。上智大学に入学して神父さんやシスターが無給でいろいろと社会的な活動をしているのを見てあんな事が出来るといいなとは思っていました。その後アラスカの大学院に入ってイエズス会の活動をしている若い教師に会って自分にも出来そうだと思いボランティアを目指しました。その後日本に帰ってから、カンボジアの難民キャンプで一年間ほど働き、その中で悲惨な地雷被害の実状を知りました。再度日本に帰り、今度は7年間仕事をして資金を貯めました。そして、1988年に日本を出て世界各地でボランティア活動に入りました。皆さんも、身の回りの事で結構ですから家族から少し範囲を広げた廻りの人のためになる事をやってみていただきたいと思います。それが自分のためになります。いつも教える事より教えられることの方が多いというのが私の実感です。


(質疑)
Q. イエズス会の活動についてもう少し詳しく知りたいのですが。

A. 私たちの哲学は「愛を求めて」であり、カンボジア人の中に入って存在し、個人的な接触をし、現状を反省し新たな道を開く事である。貧困を無くすために、教育を与え、不正を正す事を目指している。具体的には、身体障害者のために職業訓練校を開いています。ただ、教えるのでは無く同じ寮にに寝泊まりして生活もしています。この学校では障害者同士が自分の出来ることをして協力しながら生活しています。技術を学ぶ以外に一緒になって生きていこうとすることを学ぶのです。
 身体障害者支援は職業訓練校に来られない人達にも与えられます。住居問題が深刻なので雨漏りがするような家の場合には家を作ってあげます。藁葺きの家はだいたい5万円から6万円で出来ます。そして、十分な食料を与え、田植え時には苗も与えます。水が無ければ井戸を掘ってあげます。学校に行くために自転車を与えます。そして、訓練校に行けなくても手に職を得るように、簡単なパンク修理の技術等を学ばせています。農耕の土地を持たない人には土地も与えます。職業訓練校では車椅子を製造・販売しています。車椅子利用者が車椅子を月に80台作っています。一台1万円位です。
 地域開発も行っています。道がありませんから道を現地の人に作ってもらい、代わりに米を与えたりします。学校に行けない児童や大人に読み書きも教えています。一ヶ月子どもが休まずに来ると米20キロを与えたりします。計算も教えます。メディックスのメンバーが病気の人に薬を支給したり、病院へ搬送したりします。HIV患者やAIDSの人のカウンセリングもやっています。耳の悪い子どものためにヒヤリングエイドを実施しています。蚊の防止やシラミ駆除もやっています。AIDSの人のかゆみを止める薬(スケービー)も作っています。移動図書館をやったりやビデオを撮って見せたり、香港からのボランティアが大学で教えています。地雷除去のモニタリングもやっています。また、難民のために家探しもします。専門家の調査で帰国難民の追跡調査もしています。それによると彼らはコミュニティになかなかなじめないようです。


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